記事「倭国大乱」 の 検索結果 18 件
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小説・神武東征 10 船出、別れ(承前) ミケの説明によると、オサカゲことテツたちの生まれ育った邑は、当地から北の方角に何日も進み海沿いの浜に出て、そこから更に島伝いに大海を渡りきった陸地の奥にあり、その地では鉄(クロガネ)が豊..
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隅田人物画像鏡 7 騎馬へ強い関心(承前) 具体的には西暦184年の「黄巾の乱」あたりが一つの目安になるのではないでしょうか?この想像が許されるなら、隅田鏡の出来上がるまでの時間的推移は凡そ次のように成るでしょう。 ① 西暦..
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倭国大乱 2(承前) 時代は違いますが三国志の魏書、東夷伝弁辰条の中には、 国、鐡を出だす。韓、濊、倭みな従ってこれを取る。諸市に買うに鐡を用う。 中国の銭を用いるが如し。また以って二郡(楽浪、帯..
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オオクニヌシの原像 3(承前) そして彼(天穂日命、天菩比神)は、当サイトが天津彦根命と同神だと推測している天若日子より前に葦原中国に使者として遣わされ「大国主神に媚び付きて三年に到るまで復奏しなかった」とされる神様で..
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銅と鉄古事記によると、伊邪那岐・伊邪那美二柱による「国生み」によって出来た、大八島のうち、最初に生まれたのが淡路島であった。その、淡路島の最北端、最も本州に近い辺りから七個の銅鐸が出土した。研究者によれば、..
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オオクニヌシの「国譲り」は神話の世界の御伽噺なのだろうか。この神話を卑弥呼と関連付けて解説した物を寡聞にして知らないが、「後漢書」には『桓霊間 倭国大乱』という一文が載っており、西暦146~189年の間に、倭国が大..
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《史料》「魏志」倭人伝★史料★ 倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国。漢の時朝見する者あり。今、使訳通ずる所三十国。 郡より倭に至るには、……邪馬壹国に至る、女王の都する所。 その南に狗奴..
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邪馬台国と卑弥呼★基本のまとめ★ 3世紀には邪馬台国の女王・卑弥呼が鬼道を用いて約30の国をまとめていた。 卑弥呼は、239年に魏に使いを送って「親魏倭王」の称号と金印を得た。 卑弥呼の死後は、国が乱れたが宗女..
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『漢書』地理志、『後漢書』東夷伝、「魏志」倭人伝の概要★基本のまとめ★ 『漢書』地理志には、紀元前1世紀頃の倭人が百余国に分かれ、楽浪郡に使いを送っていたことが書かれている。 『後漢書』東夷伝には、紀元後57年に奴国の王が後漢の光武帝に使いを送ったこ..
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邪馬台国の遷都(29)公孫氏の支配が直接九州に及ばなくても、邪馬台国は戦に備えて遠賀川から遷都した。「遷都の三原則」を当てはめると、結論はこうなるのである。邪馬台国は220年から238年の18年間に遷都したと考えてよいの..
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邪馬台国の遷都(25)次に、卑弥呼の共立と公孫氏の遼東支配について考える。公孫度が遼東大守に任ぜられたのが189年で、その後、勢力を伸ばしていく。一方、卑弥呼が共立された年代を明確に記した文書は見つかっていないが、『後漢..
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邪馬台国の遷都(24)二世紀後半は地球規模で気候変動が起き、洋の東西で大混乱の記録が残っている。水月湖や尾瀬ヶ原の日本国内での各種分析からも、異常気候が明らかになっている。倭国大乱も例外ではないだろう。 争いが起きれ..
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