記事「卑弥呼」 の 検索結果 722 件
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邪馬台国の遷都(33)卑弥呼=帯方郡太守の岩元正昭説であるが、字面だけみると不規則な点もある。魏志倭人伝で誰かを任命する部分には「今以汝爲親魏倭王」など、タイトル(王や太守などの役職)の前に「爲」の字が入っているが、岩元..
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邪馬台国の遷都(32)岩元正昭説を理解するには、帯方郡太守は誰なのかを解明しなければならない。魏志倭人伝に戻る。事件の九年前の景初二年(238年)十二月のことである。 「詔書報倭女王曰 制詔親魏倭王卑彌呼帶方太守劉夏〜..
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邪馬台国の遷都(31)魏志倭人伝の狗奴国についての記述に、理解しづらい箇所がある。とくに最後の下り、張政らを派遣したのは魏なのか帯方郡なのか、また、難升米は卑弥呼の代官であるが、彼は何処にいたのだろうか。 「真説魏志倭..
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邪馬台国の遷都(29)公孫氏の支配が直接九州に及ばなくても、邪馬台国は戦に備えて遠賀川から遷都した。「遷都の三原則」を当てはめると、結論はこうなるのである。邪馬台国は220年から238年の18年間に遷都したと考えてよいの..
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邪馬台国の遷都(28)公孫氏が朝鮮半島南部の倭人を従属させたからには、その影響が邪馬台国に及ぶのは必定であろう。岩元正昭氏の言うように、公孫氏の一大率が伊都国に置かれたなら、遠賀川下流域にあった邪馬台国の女王はそれを認め..
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邪馬台国の遷都(25)次に、卑弥呼の共立と公孫氏の遼東支配について考える。公孫度が遼東大守に任ぜられたのが189年で、その後、勢力を伸ばしていく。一方、卑弥呼が共立された年代を明確に記した文書は見つかっていないが、『後漢..
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邪馬台国の遷都(21)「遷都の法則」を当てはめると、最初に言えることは、邪馬台国は「倭国大乱」で奴国を破っても、遠賀川から遷都しなかった。次に、福岡県朝倉市へ遷都があったとすると、それには大陸や朝鮮半島が関係したのではない..
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邪馬台国の遷都(20)本項は図らずも、大和朝廷の「遷都の法則」から邪馬台国の遷都を割り出して、その所在地を探る手掛かりを求める長旅になってしまった。前回は、邪馬台国の墓制である箱式石棺墓の分布と時期を整理することで、卑弥..
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邪馬台国の遷都(17)邪馬台国の所在を、魏志倭人伝の「南に水行十日、陸行一月」の記載から割り出そうとすると謎の罠に陥る。そもそも「都」は天皇の御所がある首都という、現在の意味で解釈してよいのだろうか。 安本美典氏は先..
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邪馬台国の遷都(16)都は大和の本拠地からは滅多に動かない。天皇の代数で80.5%が大和盆地である。だが、国際情勢がからんでくると引き籠っていられなくなる。これが神武東遷以降に大和盆地の外に遷都した理由であり、「遷都の法..
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邪馬台国の遷都(4)辛酉革命論を根拠にした先人たちの知恵を受け継いで、明治政府は紀元前660年を神武即位の年とした。万世一系の世界最古の天皇家を頂く、大日本帝国に相応しい歴史なのである。 圧倒的な力を持った欧米列強..
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邪馬台国の遷都(1)昨日、平成28年(2016年)3月27日に「邪馬台国の会」(http://yamatai.cside.com/)の講演会を聴講した。本稿「中国共産党の歴史戦」でも取り上げたが、会は安本美典・元産業能..