記事「原民喜」 の 検索結果 17 件
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2359「鎮魂歌」と「碑銘」の詩人の夏 核抑止論で覆われた世界に詩人、木原孝一(1922~79)が、東京への空襲で死んだ弟のことを書いた「鎮魂歌」という詩がある。弟への思いをたどりながら、1928(昭和3)年から1955(同30)年までの時の流れを追った反戦詩と..
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引用による原民喜紹介引用による原民喜紹介 この文章は2007年に、原民喜という小説家について調べて書いたものです。 作品からの引用により、原民喜という作家を、そのほんの一面なりとも、紹介しようという目的で書き..
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引用による原民喜紹介(7)(7) 地上との別れ おそらく原民喜自身、『鎮魂歌』において、自分に「課せられているもの」に応えることができたと、感じることができたであろう。 1951年、武蔵野市において、『心願の国』と..
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引用による原民喜紹介(6)(6) 『鎮魂歌』 『鎮魂歌』は、戦後の焼け跡――「息をするのもひだるいような、このふらふらの空間」――を彷徨う「僕」が、死者たちを想うところから始まる。 自分のために生きるな、死んだ人..
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引用による原民喜紹介(5)(5) 試行錯誤と使命 その試行錯誤を、まずは『夏の花』から見てみよう。 この小説は、原子爆弾の一撃を受けた「私」(原民喜自身とおぼしき主人公=語り手)からの一点描写が、ほぼ全編に渡っ..
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引用による原民喜紹介(4)(4) 原子爆弾 私は街に出て花を買うと、妻の墓を訪れようと思った。ポケットには仏壇からとり出した線香が一束あった。八月十五日は妻にとって初盆にあたるのだが、それまでこのふるさとの街が無事かど..
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引用による原民喜紹介(3)(3) 病妻との共生と死別 1937年(昭和12年、32歳)、廬溝橋事件勃発。 日中戦争が開始される。 [……]あの常に脅かされていたものが遂にやって来たのだ。戦争は、ある年の夏、..
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引用による原民喜紹介(2)(2) 青年時代 1923年(大正12年、18歳)頃、詩作を始めるとともにロシア文学などを耽読。 同人雑誌に参加。 1924年(大正13年、19歳)、上京し、慶應義塾大学文学部予科..
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引用による原民喜紹介(1)(1) 生い立ち~少年時代 1905年(明治38年)、広島県広島市に生まれる。 生家は陸海軍・官庁用達の原商店。 「民喜」の名は戦争に勝って民が喜ぶというところからきているという。 ..
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『山へ登った毬』原民喜戻って気がつくと、妹の毬が無くなっているのでした。どうしたのだろう、どこへやったのかしらと大探ししてもありません。毬は、山へ連れて行かれたので急に元気になって勝手にはね廻って、ころ/\、転んで..
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『夜』原民喜樟の大きな影が地面を覆って、薄暗い街燈が霧で曇ってゐた。雨に濡れた落葉がその辺には多い。月が雲の奔流に乗って、時々奇妙な光線を投げかける。そこは坂を登って、横に折れた路で、人はあんまり通らなか..
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『星のわななき』原民喜その後、私は東京の友人のところで間貸りして暮すやうになつたが、一年あまりすると、余儀ない事情でそこも立退かねばならなくなつた。宿なしの私は行くあてもなく、別の知人の下宿へ転がり込んだものの、身を落..
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