記事「宮本常一」 の 検索結果 40 件
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装飾古墳の源流何寧の博物館へ行ってみますと、銅鼓だけでも所蔵数が1200なんです。・・・・。また、あそこに何ていうか川がありまして、その川の両側が石灰岩の岸壁になっているんです。岸壁に絵が描いてあるんです。しかも..
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任那(みまな)「任那はさまざまな魚物多き国にて、毎度日本の朝廷に献ず。故にミマナと呼ぶは御の字の心、マナは魚の事。任那は魚を献ぜし事、摂津の国風土記西成郡の編に、その魚来たれば御魚家(みまなや)と云て京へ送るまでの..
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からゆきさんみな金ほしさにのために稼ぎに出かけたのであるが、稼ぐといってもだまされて売りとばされたものが多く、稼ぐ手段として売春よりほかに方法のない世界にいた。密航なのだから、正業につく余地はほとんどなかった。..
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「怒りの孤島」に生きる人々長島・天草の素通り ・・・・ 海岸には漁家らしいものはすくない。漁業も建網を主としてそのほかに釣漁が少し行われる程度であるという。 その風景だけからすればこの地もまた出稼ぎの盛んなところで..
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すみずみまで光を・・・・ 世の中をよくするには、自分が社会の中の一人であることの自覚と、そのことのために、なんらかの意味で社会への寄与を願う心が、自ら前衛を自負する人びとばかりでなく、後衛の人びとの中にもみちみ..
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方言札番組では、五島列島の離島にオープンしたばかりのコールセンターと、声だけでさまざまなクレームに対応しなければならないストレスで辞める者が後を絶たない札幌のコールセンターの二つの例が、ビデオで紹介された..
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近代の暗黒昭和九年(一九三四)といえば東北地方が大凶作に見舞われたころであるが、秋田県からおもに東京、神奈川方面の紡績工場に千八百四十七人の女が出稼ぎにいっており、おなじ県のなかでも仙北郡と平鹿郡の出身者が多..
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宮本常一の思考~悠久たる時間的スパン~湯前町の城泉寺の小さなお堂の中を見せてもらう場面も味わい深い。そこは昔、子ども達の遊び場になっていた。「床板には子供たちがコマをまわした跡が穴になっており、それが無数にあった」のだが、宮本はその穴の..
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そこに集まった人たちは、素性の良い人と悪い人が混在していた・・・北海道の開拓が非常にアンバランスで、ある部分はすごくきちんとしていて、「山道を一五マイル登って行くと、七飯(ナナイ)という整然とした洋風の村がりっぱな農作物に囲まれている。ここは政庁が新風土馴..
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土によせる丸山さんは村をよくしようとして仕事をしはじめてもう三十年もたっている。三十年もたってひとつひとつ成功しておりつつ、そこから出てくる次の問題は実はまえよりももっと重大なものである。そして少しずつ責任は..
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イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読むもっか佐々大河さんの『ふしぎの国のバード』という イギリスの旅行家、イザベラ・バードの日本旅行記をもとにした マンガを読んでいますが、こうなるとやはり イザベラ・バードの書いたものを直接..
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絵巻物に見る日本庶民生活誌本書は、『忘れられた日本人』などの名著でおなじみの民俗学者宮本常一先生の遺作だそうです。 内容は、タイトル通り、さまざまな絵巻物に描かれた人々の姿から、平安時代~鎌倉時代あたりの民衆..