記事「富永太郎」 の 検索結果 28 件
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誕生日四月二十九日は詩人・中原中也の誕生日である。彼は、明治四十年の今日、山口県の湯田温泉という所で生まれた。西暦1907年のこと。両親が結婚して7年目、そして中原家では45年ぶりの男子出生だった。お祝いの..
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中也の青春 6(承前)同じ映画の世界で活躍している葉山三千子の部屋を訪れたり、また彼女が親しくしていた岡田時彦と一緒に外出もした長谷川泰子は、ますます映画への関心度を高めたであろうことは間違いない。大阪の新聞には三..
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中也の青春 5 「痴人の愛」ナオミ(承前)「上海での永住」という望みを持っていた富永太郎だが、それはならず、二カ月ばかりの滞在で帰国、一端は自宅へ戻ったが、旧制第二高等学校の同級生である正岡忠三郎の下宿先に富永がやってくるのは1924..
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中也の青春 4 谷崎と映画俳優たち(承前) 前日から箱根で静養していた谷崎夫婦は、いつもの定宿から小涌谷の新しいホテルに移り、翌九月一日昼前、もとの箱根ホテルに戻るバスに乗り合わせていた時、関東大震災に遭遇、その日は野宿し、なんとか..
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中也の青春 泰子と映画中也に詩の何たるかを、そして文芸・芸術全般にわたって貴重な生の意見を真摯な態度で明確に示してくれたのは、富永太郎(1901~1925.11)だった。彼は元々理系の方面に進む意向を持っていたのだが、志半..
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天高く日々の暮らしの中で、改めてまじまじと空を見上げることは稀だ。ただ、樹々や草花の画像を取ろうとすれば、そして余計な建物の群れを避けようとすれば、どうしても「下から」空を見渡す構図になる。 かつて詩人の..
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太郎の恋大正五年(1916)、神戸から旧制東京府立第一中学校に編入して、富永太郎と同級になった評論家の河上徹太郎(1902~1980)は、太郎の死後に編まれた詩集に寄せた文章の中で、 機械体操の巧い、白..
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15 冨倉、富永そして正岡(承前)中也の短すぎる生涯の全てを知り得る立場に居るものからすれば、彼の一生にとって決定的な他者との「出会い」が京都時代に幾つも連鎖的に起こった事実は、何やら尋常では無さそうにも思えるが、誰かが、予め..
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14 答案に創作詩(承前)中也は強運の人、幸運の持ち主だったのかなぁ、と思うことがある。次から次へと彼の周囲には好意的な人たちが吸い寄せられるように集まり、中原は、その中心付近に居て台風の目のような存在になってゆく。 ..
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関東大震災と中原中也詩人の中原中也は1923年3月、旧制山口中学校で落第している。 広島生まれでミッション系の女学校を卒業した後、どうしても女優になる夢を叶えたかった長谷川泰子(1904~1993)は、1923年8月家..
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中原中也とダダイズム 83 最終回(承前) ダダ詩の絶対による表現の過程で中原は、名辞以前のイメージ世界、認識以前の世界を表出することによって、言葉による表現の相対性を乗り越えられると考えていた。 神の絶対はダダの絶対と対峙し..
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中原中也とダダイズム 82 孤独(承前) ノート最終の詩『冬と孤独と』は、未来に不安と期待を同時に抱いた中原の、やや落ち着きのない視線が感じられる。 新聞紙の焦げる匂ひ 黒い雪と火事の半鐘 私が..
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