記事「屋島」 の 検索結果 84 件
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讃岐うどん・・・*カラオケ喫茶ランの高齢者?の方々と、讃岐うどんを食べに行ってきま した。5~6回行っているので、感激もありませんが、丸亀市にいる知人との 顔合わせが楽しみです。 中国高速道が混雑していて、..
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義経鞍掛松寿永4年(1185年)2月、平家追討の命をうけた九郎判官義経は、源氏の精鋭を率いて阿波の勝浦から大阪峠を越えて讃岐に入り、屋島を望むこの地で人馬を整え、平家の陣を攻めたと伝えられています。その時大将義..
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赤牛崎源平合戦が行われたときは屋島は文字通り島で、簡単には海を渡ることができなかったそうです。そのために、安徳帝の内裏を攻め込もうとした源氏軍は、数十頭の赤牛を放ち、浅瀬の場所を知り屋島へ上陸したと伝わって..
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菜切地蔵堂源平合戦の時、炊事をするのにマナ板がなかったので、弁慶が石地蔵の背で野菜を切って汁を作り、義経以下にさしあげたそうです。その時、義経が「弁慶がこしらえし菜は武蔵坊」と発句をよむと、すかさず弁慶は「それ..
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瓜生が丘屋島にいる平氏を攻めるために源氏が本陣を置いたと伝わる場所。付近一帯を瓜生が丘と呼び、「宇龍ヶ岡」と刻まれた石碑も建ちます。 義経の身代わりとなって戦死した佐藤継信が運びこまれた場所とのことです。
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長刀泉源平屋島の合戦の時、この付近は海が近く水がわるかったので源氏の兵は炊事をするのに難儀したそうです。そこで、武蔵坊弁慶が長刀で井戸を掘ったところ、きれいな水が湧き、その水を使ったと伝えられている古井戸で..
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太夫黒墓太夫黒は源義経の愛用していた馬。この馬は後白河法皇から義経に賜わったもので、佐藤継信の忠死を賞揚する余りに、義経はこの馬を志度寺の覚阿上人に施して菩提を弔わせました。太夫黒が倒れて後、寺の人は太夫黒を..
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佐藤継信墓佐藤継信は、治承4年(1180年)、奥州にいた源義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により弟・佐藤忠信と共に義経に随行しました。そして、義経の郎党として平家追討軍に加わったのち、屋島の戦いで..
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佐藤継信墓佐藤継信は寿永4年(1185年)2月の源平屋島合戦のとき、平家の武将能登守教経の強弓により大将義経の命危ういとみて、義経の矢面に立ち身代わりとなって討死しました。この墓は、寛永20年(1643年)に、..
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安徳天皇社寿永2年(1183年)、平宗盛は安徳天皇を奉じて一の谷から屋島に到着しました。ここは檀の浦の入江に臨み、後ろには険しい屋島の峰、東には八栗の山をひかえ、戦には地の利を得た処だったので、宗盛はこの地に行..
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菊王丸墓源平屋島の合戦の際、平能登守教経は佐藤継信を射落とし、教経に仕えていた菊王丸は継信に駆け寄りその首を取ろう としました。しかし逆に、継信の弟忠信に射抜かれ、菊王丸はまもなく息たえたとのこと。これを悲し..
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義経弓流し源平屋島の合戦の際、遠浅の海岸だったこの場所で、両軍が入り交じり激戦を繰り広げている最中に、源義経が脇にはさんでいた弓を落としてしまった場所。義経は「源氏の大将は、こんな弱い弓を使っているのか」と平家..