記事「忍坂」 の 検索結果 14 件
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神々の系譜 8(承前) 如何にカミサマ方の世界での出来事とは云え、ここまで来ると、流石にもう御手上げですが、葦原志挙乎命(アシハラシコオ)の名で表される神を「大国主(オオクニヌシ)」に成る前の、狭い地域を治める..
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隅田鏡と忍坂宮 7 中つ姫と卑弥呼(承前) 大正十一年に刊行された『大阪府全志』は、元々、河内の豪族であった息長氏に日本武尊(ヤマトタケル)の子・息長田別王が入り婿として入り、更には、その後、応神天皇の息子・若沼毛二俣王が養子とな..
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隅田鏡と忍坂宮 6 近江遷都の背景(承前) 更に、推理をもう一歩進めると、大和朝の内部には、その初期段階から金属(武器)製造に長けた一族が存在していたと思われ、その代表格が『阿蘇ピンク石と景行帝』『阿蘇ピンク石と野洲』で詳述した稲..
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隅田鏡と忍坂宮 5(承前) 五十瓊敷入彦命は、次男の大足彦尊(オオタラシヒコ、景行天皇)と共に、垂仁三十年正月、天皇から『汝等、各、情願しき物を言せ』と尋ねられた時『弓矢を得んと欲ふ』と答え、天皇から「弓矢」を賜っ..
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隅田鏡と忍坂宮 1 門外不出考古学に興味のある方なら誰でも知っていることですが、和歌山県橋本市に建つ隅田八幡神社に古くから伝えられてきた一面の鏡があります。正確な出土の状況が詳しく記録されていないので、近くに在った「妻古墳..
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鏡とピンク石 3 阿蘇の石への憧れ(承前) この事実だけをもって三つの地域の実力者たちが「同盟」して大和政権を運営していたと決めつけるのは早計ですが、帝室と吉備氏とのつながりは大和朝の初期から顕著であり、景行天皇と稲日大郎女の婚姻..
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仁徳と石上神宮 1 布留宿禰『新撰姓氏録』は西暦八一五年、時の嵯峨天皇の勅命により編纂された官製の氏族名鑑ですが、千百八十二氏の中に含まれる布留宿禰(フルスクネ)には、次のような註文が記されています。 男木事命 男市..
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石上神宮と吉備 2 忍坂から石上へ(承前) 古事記も崇神天皇の段で、ほぼ同様の記述をしていますが、一つだけ日本書紀が全く触れていない内容があります。それがオオタタネコの「系譜」で、帝に「汝は誰の子か?」と問われた彼が『僕は、大物主..
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忍坂と天津彦根命 5 巨石の里・冬野(承前) 忍坂生根神社が教えてくれた忍坂と天津彦根命・少彦名命親子神との関係、そして額田部氏が伝えた「薬」との関わりについては、調べものを続ける内に興味ある別のつながりも発見できました。推古二十年..
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忍坂と天津彦根命 4 陵墓への疑問(承前) 百済宮での大殯から一年三か月、皇極元年十二月先帝舒明の喪が発せられ同月二十一日帝は「滑谷岡」に葬られたと日本書紀が記録しています。日本古典文学大系の註文によれば「なめはさまのをか」は高市..
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忍坂と天津彦根命 3 医薬でも存在感(承前) 回り道をしました、舒明天皇の陵墓に話を戻します。近鉄大阪線の大和朝倉駅で下車し、静かな住宅街を抜けながら南に1㎞余り行くと国道166号線の忍坂交差点に辿りつきます。彼の押坂内陵は、そこか..
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忍坂と天津彦根命 1 押坂と息長氏「万葉集」の題詞(漢字による詞書)によれば、第三十四代舒明天皇(593~641)は、登極間もなく即位儀礼の一環として天香久山に登って国見を行ったと見られ、巻一の冒頭近くに載せられた有名な一首は、..
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