記事「愛知」 の 検索結果 7274 件
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武蔵塚森長可は森武蔵守長可と自称し、その秀でた武勇から鬼武蔵と称されていました。 小牧長久手の戦いでは義父の池田恒興(勝入)とともに秀吉方として参戦。 徳川方の背後を突く作戦に出ましたが失敗し長久手で戦死し..
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庄九郎塚庄九郎とは池田恒興(勝入)の長男である池田之助の幼名。 池田之助は父の池田恒興(勝入)とともに小牧長久手の戦いに参加し、徳川方の背後を突こうとしましたが、その作戦が失敗し長久手のこの地で討死しました。..
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池田勝入塚池田恒興は通称勝三郎、晩年に入道して勝入と号した戦国時代の武将。 小牧長久手の戦いでは秀吉方として参戦し、 徳川方の背後を突く作戦に出ましたが失敗して長久手のこの地で討死をしました。
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長久手古戦場碑天正12年(1584年)に、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の間で戦いが発生。 両軍は小牧付近で睨みあいを続けましたが、その中で秀吉軍が徳川軍の背後 を突こうとして発生したのが長久手の戦い。長久手の戦いは..
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岩崎城織田信秀により尾張の国の東端を守備する支城として築城されたとのこと。 小牧長久手の戦いに際しては、岡崎城を目指していた羽柴方に攻められて落城。 現在は模擬天守閣がつくられ、愛知県日進市の歴史記念館とな..
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唐人お吉像幕末の下田で、玉泉寺の米領事館に奉公にあがったのが唐人お吉。 尾張国知多郡西端村(現在の愛知県南知多町内海)に生まれ、 4歳まで内海で過ごしたとのことで、生地近くに像が建てられています。
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長田屋敷跡平治の乱で敗れた源義朝は、馬も失い裸足で尾張国野間にたどり着き、 家臣の鎌田政清の舅で年来の家人であった長田忠致・景致父子ののもと に身を寄せました。しかし、長田父子の裏切りに遭い、この地で無念の最期..
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磔の松建久元年、上洛の途中、野間に立ち寄った源頼朝は、父源義朝を殺した 長田忠致・景致父子を捕らえ、この松にて磔に処したと伝えられています。 長田父子に与えられた恩賞は、美濃尾張(身の終わり)ということでし..
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源義朝像源義朝は保元の乱では後白河方の中核となって戦った河内源氏の武将。 乱後、左馬頭に任じられましたが、平治の乱では平清盛に敗れ、再起を目指して東国へ落ちる途中、野間で裏切りに遭い謀殺されてしまいました。義..
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湯殿跡平治の乱に於いて敗北した源義朝公は源氏再興の志をもって関東を目指しての逃亡の途中、ここより西700mの所にあった長田屋敷に逗留していました。しかし正月3日、源義朝は初湯に招かれ、入浴中に長田父子に謀殺..
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乱橋跡平治2年(1160)正月3日、主君義朝謀殺の大事を聞いた家臣渋谷金王丸や鷲栖玄光らが湯殿にかけつけるとき、この地にあった橋のあたりで長田の家臣と乱戦となり、後にこの橋が乱橋と言われるようになったとのこ..
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大門(野間大坊)源義朝が平治の乱に敗れ、臣下の長田忠致に謀殺された処が野間の地。 建久元年(1190年)に、上洛途中で野間の大御堂寺を訪れた源頼朝が 父義朝の法要の際、境内の様々な伽藍と共に寄進建立した門とのことです..