記事「武田信玄」 の 検索結果 785 件
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『人鏡論』と『甲陽軍鑑』とある本の中に、「『人鏡論』の日本人」という章があり、はじめよく分からなかったが、繰り返し読むと、何となく言っていることが分かってきた。 以後しばらく思考していたが、ようやく記す事の意味を納得で..
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武田信玄の人間観察眼人を観る眼。 奇特な能力を発揮した武田信玄の事例と、人を虜にする、ある手法から歴史を探ってみた。 『甲陽軍鑑』品第三 「信虎公追出の事」 には以下のような記述がある。 1,信虎公、た..
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武田の騎馬武者を『甲陽軍鑑』にみるー続編ー武田軍の戦場での「馬」の投入について見ている。 再び、散在する記述を見いだすことができた。 『甲斐の黒駒』より引用 「騎馬武者」復元模型。 現物は、馬の博物館蔵。 ..
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武田家家臣から見た名馬について「甲斐の黒駒」展では、武田家家臣達がどの様な馬を好んでいたのか?、その辺りを『武具要説』という資料を用いて紹介しています。 この『武具要説』という書について調べてみると、題箋の書名となっています..
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武田軍の馬について武田氏館から発掘された馬の全身骨格が復元されています。 この馬は武田氏館の西曲輪南側の枡形虎口の馬出空間より発見されています。 虎口なので、現代で言えば敷地内への出入り口に相当します。 ..
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武田信玄と歴史―信玄公他界の地 根羽―信玄公終焉地の中で、遺物と史料の両面を備えた地が長野県下伊那郡根羽村横畑地先となります。 信玄塚の東下、正面にある家屋の奥に、墓石群がありこれらは元信玄塚の側にあったもの、またその右手の..
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武田信玄と歴史―三州福田寺の史跡―先日長野県下伊那方面を訪れた際、愛知県北設楽郡設楽町田口の福田寺まで足を延ばしてきました。 信玄塚や宝篋印塔のある根羽村横畑からはおよそ、29kmの距離となります。推定によればこの間の行軍は平均..
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武田信玄と歴史―そこから見えてくるもの(信玄塚墓壙)―山梨県立図書館で目当ての書籍を見てきました。 『武田信玄終焉地説 「武田信玄終焉の地考」(解決編)』です。 初めは、「天正玄公仏事法語」という恵林寺に蔵置されている天正四丙子四月十六日に行わ..
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武田信玄と歴史―根羽村横畑の墓石群―武田信玄の終焉地、信濃下伊那駒場―横畑にかけての地域。 現在残る史跡の地で失われたものは根羽村横畑にあった信玄塚。 国道新設時に国道下に埋没してしまいました。 古写真には旧国道と十..
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武田信玄と歴史―信長と武田親子の首―浪合村の史跡の続きです。 浪合村の郵便局の脇には、天正十年三月十一日、甲斐大和村田野の地で自害した、武田勝頼・信勝父子の頸が検分された地が史跡として残されています。 記念碑には、..
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武田信玄と歴史―火葬塚、古老の語り―『信州駒場で死んだ武田信玄公』からの引用の続きです。 駒場の古老の方の話が主です。 そこには、 大体誰の記憶も同様であったが、その中の一番の老人である岡庭唯一氏(八九才)からの話を書..
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武田信玄と歴史―続 信玄公火葬塚―前回の続きで『信州駒場で死んだ武田信玄公』からの「信玄公火葬塚」についてを引用します。 そこには、 三、信玄公の遺体の処理はどうしたか 昭和十年前後の話である。東京から有吉喜..