記事「神奈川」 の 検索結果 12131 件
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梵鐘(相模国分寺)海老名市の国分寺にある重要文化財に指定されている梵鐘。海老名氏の一族である国分季頼(源季頼)が正応5年(1292年)に国分尼寺に寄進したもの で、作者は円覚寺や称名寺等の梵鐘を手がけた名工・物部国光と..
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相模国分寺跡天平13年(741年)、聖武天皇の詔により全国に国分寺が造られましたが、 相模国分寺もその一つで、主要伽藍配置は法隆寺と同じだそうです。大正10年(1921年)に、全国の国分寺跡としては初の史跡に指定..
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逆川跡逆川は相模国分寺建立の資材を運ぶためにつくられた、目久尻川から水を引いた運河で あったと考えられています。国分付近では南から北へ、目久尻川流域でも低地である南から台地上の北へ流れていたことから「逆川」..
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小机城址永享の乱の頃、関東管領上杉氏によって築城されたとされる城。文明10年 (1478年)に、太田道灌がこの城を攻めて落城させています。豊臣秀吉によ る小田原征伐の際には、無傷のまま落城したそうです。
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矢畑・腰し巻き畠山重忠軍と北条軍が戦った二俣川合戦の激戦地とされるところ。 北条勢の射た矢が地面に突き刺さり、まるで矢の畑のようだった、あるいは、 畠山勢の周りを腰巻のように取り巻いて刺さったことからの名称とのこと..
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駕篭塚畠山重忠の内室「菊の前」は二俣川合戦の報を受け二俣川に向かいました が、ここまで来た時、重忠の死を知り悲しみのあまりに自害したのことです。 「菊の前」が駕籠ごと埋葬されたところが「駕籠塚」として今に伝..
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六ツ塚元久2年(1205年)、畠山重忠軍と北条軍が二俣川周辺で戦いました。 兵力は北条軍数万に対して畠山軍は134騎と伝わっています。 畠山軍134騎は全滅し、畠山軍主従は6つの塚に葬られたとのことです。
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すすり石水跡元久2年(1205年)、畠山重忠軍(134騎)と北条軍(1万騎以上)が 二俣川で対陣した時、畠山重忠がここの水で墨をすったと伝わっています。 戦いは戦力の差が大き過ぎ、畠山重忠は討死してしまいました。..
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畠山重忠公碑鎌倉幕府の有力御家人である畠山重忠が北条軍と戦ったところが二俣川。 畠山重忠軍130余騎に対して、北条義時率いる北条軍は数万とも。約4時間の激戦の末、畠山重忠は愛甲季隆の放った矢に倒れたと伝わっていま..
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首洗い井戸二俣川合戦で討ち取られた畠山重忠の首を洗ったとされる井戸の跡。 かつては、ここに帷子川が流れていて、河原に 直径1m程の水の湧き出る穴があったとのことです。 また、ここを渡る時、鎧を頭にかざしたので「..
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畠山重忠公首塚畠山重忠は源平合戦で活躍した鎌倉時代初期の武将。北条氏の陰謀に より、二俣川の合戦で討ち死にをしました。畠山重忠の首を祀ったという 塚が、横浜市旭区役所の近くにあります。
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問注所跡問注所は鎌倉幕府(室町幕府にもありましたが)の訴訟事務を取り扱う機関。 当初は、頼朝邸内に設置されていましたが、建久10年に移転したそうです。 問注所では、民事訴訟および訴訟雑務が取り扱われていたとの..