記事「福岡県」 の 検索結果 7891 件
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番外:『筑前国続風土記』と貝原益軒=西浦から九大学研都市駅(福岡市西区徳永)へまたバスで戻る道々バス停の名前には「の」が入る西浦から、また乗ってきた同じバスに乗る。来るときは今津橋から乗ったので、この路線の起(終)点が「九大学研都市駅前」であることに、初めて気がつく。この駅は、JR筑肥線の今津..
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905 西浦崎=福岡市西区西浦(福岡県)昔は北崎と呼んだ糸島半島の最北端は東西どちらの岸からも望めないので…西浦崎は、福岡市の西端で最後の岬となる。北崎と昔の名を今も学校や公民館に残す西浦の出っ張りの先端は、蒙古山と妙見山とそれぞれ150メートルほどの2つのピークをもち、周囲は50メートルくらいの断崖が取..
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904 唐泊崎=福岡市西区宮浦(福岡県)のこのうらなみたつここも今津と並ぶ唐船の主要寄港地だった昔は「北崎」と呼んだ糸島半島の最北端は、なんとなく犬釘の頭を連想してしまう。その犬釘の頭の片端が、唐泊崎である。 宮浦から港沿いに続く集落が奥まったところでまた密集しているところが唐泊で、その前の宮..
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903 津上崎=福岡市西区宮浦(福岡県)宮浦の港の目印になったであろう岬の南の小田地区がおもしろそうだ東側の約3分の1が福岡市、残り西側が糸島市になっている糸島半島は、おおよそ5つ(フラクタル図形のようは枝の数え方によっては7〜8つ)の出っ張りをもっている。そのうち北端にあって福岡市に属するいちばん..
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902 津舟崎=福岡市西区今津(福岡県)バスの窓ガラスがあんまり汚すぎるので車窓写真はこれだけに今宿の駅から今山まで歩いてきて、その付近に記されていた防塁は、結局見つけることができなかったのだが、まあもう生の松原で充分見たのでそれはよい。洲ノ崎も今津橋から見て、次は5キロ近く北西方向に離れた津..
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901 洲ノ崎=福岡市西区(福岡県)糸島半島は東端の今津にある入江の口に砂州でできた頼りなげな岬「洲」のつく岬は、全国で16あり、「州」も1つある。「鼻」も「崎」も「の」や「ノ」が入ったのもあるが、これらの岬に共通しているのは、河口などの砂州が発達してできたもの、という生成の過程であろう。また..
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900 碁石鼻=福岡市西区今津(福岡県)志賀島からの遠望になってしまった行き損ね鼻はシロもクロもわからず「碁石」というのは、白黒混ざった石が多いところからの名で、海岸や浜はあちこちにあるが、岬では2つしかない。ここ以外は、大船渡市の碁石岬である。震災にあった地域の海岸線は、でんでんむしのように公共交通..
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899 也良岬・土手崎・大波戸崎(能古島)=福岡市西区能古(福岡県)元寇の海はまた防人の海でもあった文永の役の翌年には、クビライは再び使者を出して、日本が元帝国に服属することを迫る。この使者が乗った船は、長門の室津へ着く。現在の下関市豊浦町(川棚温泉の近く)なのだが、前回の博多湾の今津へではなく、..
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898 浜崎・白鳥崎(能古島)=福岡市西区能古(福岡県)蒙古襲来の海に浮かぶ島の南岸を眺めつつ古を想う妙見岬の北に向かい合っているのは、能古島(のこのしま)の南端にあたる浜崎である。北の志賀島と並んで、博多湾を守るように湾中央でサツマイモのような形をして南北に長いこの島は、南北3.5キロ、東西2キロ..
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897 妙見岬=福岡市西区小戸2丁目(福岡県)20キロに渡って海岸に石を積み築地(ついじ)を敷いた元寇防塁福岡空港から地下鉄に乗って博多の中心部に向かおうとすると、一部の築肥線への乗り入れ便を除くと、その多くが姪浜行きとなっている。駅名は「姪浜」と表示して「めいのはま」と読むのだが、住居表示には「の」が..
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896 狩尾岬=遠賀郡芦屋町大字山鹿(福岡県)赤い砂浜と緑の岬までで遠賀郡の岬は終わりで2012年もおしまい車やタクシーに乗っていると、不便なこともある。狩尾岬は、洞山の北、柏原漁港に続いてあるのだが、岬の南側からの写真も、洞山の小島の写真も撮ることができなかったので、東側からの写真のみになった。 狩尾岬..
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895 洞山=遠賀郡芦屋町大字山鹿(福岡県)山鹿流とは関係がないこの山鹿ではホラもあるけど茶釜は重文級今では同じ芦屋町の町内だが、昔は遠賀川左岸の蘆屋と右岸の山鹿は、別の村であった。これは、近代の橋が全部なかった時代のことを考えれば、容易にうなづけることであろう。 ところが、『筑前国続風土記』による..