記事「等伯」 の 検索結果 321 件
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『等伯』(460&461)「それでは皆の者、前々からの約束じゃ。本日の引出に絵を披露いたす」 酒に酔った秀吉が、機嫌のいい声を上げた。 秀吉と淀殿と拾丸が座った上段の間の後ろには、狩野永徳が描いたものより二倍も..
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『等伯』(458&459)「この絵を伏見城にお持ちになりますか」 「ああ。これなら首を賭けても悔いはない」 「その前に見ていただこうと、大徳寺の春屋長老を呼んでいます」 その言葉を待っていたように、取り次ぎの小..
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『等伯』(456&457)空気の冷たさがちがう。松に吹きつける風の厳しさがちがう。霧の流れ方がちがう。そして何より、これが虚空会だと受け取った直感が表現しきれていなかった。 在りのままの実相を描き、悟りの世界にい..
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『等伯』(454&455)本尊曼荼羅の前でお題目をとなえるのは如実知見、ありのままの自分と世界を発見するためである。 等伯は幼い頃から叩き込まれた教えを思い、日通とともに勤行にはげむようになった。 等伯はもう..
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『等伯』(452&453)清子はこうした変化に敏感だった。 「お前さま、家を出られたらどうですか。本法寺の日通さんに頼んであります。あそこの離れで気がすむまで打ち込んだら、道が開けるかもしれません」 翌日、等伯..
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『等伯』(450&451)「明使を迎えるために、豊太閤は伏見に城をきずいておられると聞きましたが」 「来年の夏には完成いたす」 「実は身共も明使にお立ち寄り願おうと、屋敷の増築にかかっております」 「それでは朝廷..
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『等伯』(448&449)「名護屋城では倅が不調法をいたし、ご迷惑をおかけいたしました」 「そちもさぞ力を落としているであろうな」 「ところが後に、倅の過失ではないと伝えてくれたものがいたのでございます」 「なら..
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『等伯』(446&447)閏九月二十日、秀吉は大徳寺の天瑞寺で大政所仲の一周忌の法要をおこなった。 等伯も法要の参列を許されていた。天瑞寺の障壁画は狩野永徳の手によるものだが、等伯がこの絵を参考にして祥雲寺の方丈..
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『等伯』(444&445)「な、何事だ。ここは私の……」 「人目を忍ぶ家だと聞き申した。それゆえ内々の話をするにはうって付けだと存ずる」 不穏な気配におびえた側女が、息子を抱いて逃げるように立ち去った。 「あ、..
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『等伯』(443)等伯はさっそく新左衛門に宗光の様子をさぐらせた。 「宗光さまは時々、亡き総帥の墓参に妙覚寺をたずねておられます。しかしこれは表向きの理由で、安楽小路の別宅に側女を囲っておられるそうです」 ..
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『等伯』(442)「淀殿は強運に恵まれたお方ですから、目出たくお世継ぎを上げられましょう。さすれば鶴松君ご存命の頃のように、治部どのや浅井家ゆかりの者たちが権力を握ることになります」 「それゆえ治部には逆らえ..
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『等伯』(439&440)知らせひとつが昨日と今日を厳然と断ち切り、明日の希望を奪い去ってしまったのに、目の前では昨日と変わらぬ日常がつづいている。 こんな状態を平然と受け容れられるほど、等伯は強くなかった。 ..