記事「能役者」 の 検索結果 29 件
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写楽の探し方 6 能役者の余技なのか(承前) 一方、江戸幕府は三百数十名もの能役者を抱え、その実態は、 幕府や諸藩は 能楽の保護者であると同時に厳しい監督官でもありました。 頻繁に出される厳しい通達によって、技芸の鍛錬と伝統..
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松平定信と写楽 11(承前) 再び人脈図に話を戻します。国学者で著名な歌人でもある村田春海は、地蔵橋角の家で「歌学」のお師匠さんとして暮らしていましたが、県門四天王(賀茂真淵の優秀な弟子たち)の一人に数えられた村田の..
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斎藤家に危機が訪れた時東洲斎写楽という江戸の浮世絵師は、本当に能役者の斎藤十郎兵衛だったのか、という根本的な疑問には答えられないが、江戸期に刊行された紳士録でもある『武鑑』に掲載されている猿楽師たちの一覧表から分かる、一つ..
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「四郎次郎」という名前東洲斎写楽のからみで資料を漁っていると不思議な名前の猿楽師に出会う。『寛政重修諸家譜』に収録されている斎藤高行という人物が、能楽研究者によって斎藤十郎兵衛の祖先ではないかと推測されているのだが、この人..
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総理大臣は猿楽師の子孫将軍綱吉の「能狂」のとばっちりを受けたのは宝生座も例外ではなく、下掛宝生流(ワキ方)の当主だった宝生新之丞(?~1724)は、宝永四年十一月、御廊下番に取り立てられ、御家人の列に加えられた。綱吉の没後..
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将軍綱吉という災厄江戸時代の紳士録『武鑑』元禄十年版には記載されていた喜多座の喜多十太夫の名前が翌十一年版では削られ、ワキを務めていた権左衛門が座の筆頭に置かれている。これは大夫だった五世恒能が元禄十年六月、綱吉によっ..
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初代斎藤与右衛門と後継者延宝九年(1681)刊の武鑑には「謡」の一員として喜多座に属していた初代斎藤与右衛門の名前が記載されている。また『元禄十一戊寅年分限帳控』によれば、彼の生年が1620年だったことも分かっている。裏付け..
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将軍綱吉と斎藤家の人々喜多流の宗家、三世喜多七太夫宗能とその一族の受難については、別のページで紹介したが、能楽関係の研究者によると、写楽その人ではないかと想定される能役者・斎藤十郎兵衛(1763~1820)の先祖たちにも将..
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旗本御家人で斎藤姓はレア十郎兵衛も『武鑑』に名前が記載されている斎藤与右衛門も、斎藤姓を名乗っている。そして、上に貼り付けた画像は阿波徳島藩蜂須賀家の「無足以下分限帳」の一部分で、同藩から俸給を得ていた能役者の氏名一覧なのだ..
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八丁堀同心の「仕事」も色々「犬も歩けば棒に当たる」は、良くない例を示した言葉だが、資料探しを続けていると、思わぬ処で、予期せぬ収穫にありつける、こともある。斎藤十郎兵衛が実在し、阿波藩の能役者として俸給を得ていた事実は『阿波徳..
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八丁堀に暮らした多くの能役者(地蔵橋の周辺図『八丁堀組屋敷図』より)時代劇の舞台として、良く取り上げられる八丁堀だが、そこには奉行所に勤める与力、同心の家族だけが住んでいた訳ではない。武家と町人の混在した同心拝領地は勿論、本来、..
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