記事「葛飾北斎」 の 検索結果 332 件
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岐阜市歴史博物館「北斎漫画」展5月13日(木)午後、岐阜市歴史博物館の「北斎漫画」展を見に行きました。 4月25日のNHKテレビ「日曜美術館」で、「夢の北斎 傑作10選」として、 北斎の作品から10作品を選んで紹介..
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小布施 北斎館長野、日帰り旅行のオハナシです。 善光寺で参拝後、長野電鉄に乗って小布施に行きました。 小布施は、江戸の浮世絵師・葛飾北斎が晩年に逗留した場所なんだって。 実は小布施って知らない町だ..
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小布施 北斎館長野、日帰り旅行のオハナシです。 善光寺で参拝後、長野電鉄に乗って小布施に行きました。 小布施は、江戸の浮世絵師・葛飾北斎が晩年に逗留した場所なんだって。 実は小布施って知らない町だ..
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北斎と長崎屋 下 西洋への憧れ(承前) 平成二十八年秋、オランダの研究者が国内の美術館が収蔵していた作家名の分からなかった風景画六点が、いずれも日本の画家・葛飾北斎の作品であることが判明したと発表して大いに美術関係者たちの関心..
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北斎と長崎屋 上 シーボルトと面識(多くの人が宿屋に詰めかけている) 嘉永二年四月、九十歳で臨終を迎えようとしていた葛飾北斎(1760~1849)は『天が、後五年の命を与えてくれたなら、必ず真正の画工になることが出来るだろう..
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北斎と蔦屋 下 豊かな画才が開花(承前) 破門された葛飾北斎は既に三十台半ば、たちまち生活に困窮したと思われ、食品の行商をして糊口をしのいだと云う「伝説」も残されています。時間が少し前後しますが、春朗は摺物だけを描いていた訳では..
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北斎と蔦屋 上 勝川派を破門に葛飾北斎は宝暦十年(1760)江戸葛飾本所の割下水で生をうけ、幼名を時太郎といい、後に鉄蔵と改名しています。幼い頃に他家の養子となったものの実子に家督を譲ってからは商家などで奉公、一時彫刻師の下..
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北斎と鍬形蕙斎 下 宮仕えの道(承前) 勿論それは著者である式亭三馬個人の判断が働いている訳ですが、当時の出版事情を熟知していた人物の見立てとして参考にすべきかも知れません(彼の父親は版木職人。彼は地本問屋で奉公)。 筆者なり..
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北斎と鍬形惠斎 上『増補浮世絵類』を著して、浮世絵師の東洲斎写楽が能楽師であると言う情報を記した江戸神田の名主・斎藤月岑(1804~1878)は、編年体の江戸史『武江年表』全八巻も嘉永二年以降に順次刊行しています..
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北斎と写楽 5 評価を得ていた絵師(承前) そして、東洲斎写楽も確かに「余りに真を描かんと」したためにモデルとなった役者たちから「不評」は得たのかも知れませんが、描く対象への悪感情は微塵も感じられないのです。長生きをした葛飾北斎が..
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北斎と写楽 4 蔦屋サロン賑わう(承前) 正体不明の浮世絵師・東洲斎写楽が彗星のように登場したのが寛政六年の五月であったことは、別のページ(「写楽・落款の謎」)でも詳しく書いてきましたが、上の表からお分かり頂けるように、この人た..
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北斎と写楽 3 挿絵も巧みに描く(承前) これは「宗理」の画号を門人に譲ったとされる寛政十年(1798)、山東京伝が書いた『化物和本草』にある挿絵と、その「画工」名を記した奥付部分なのですが、皆さんの眼にはどの様に映るでしょう。..