記事「蝦夷地」 の 検索結果 60 件
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會津藩士の蝦夷地移住(33)大友は土地を開拓使に引き渡し、開拓使掌に任じられた。しかし、相次ぐ計画の変更に失望して6月、北海道を去った。 翌明治3年(1870)正月を小樽の宿舎で迎えた會津藩士たちも、そろそろニシン漁の準備が始..
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會津藩士の蝦夷地移住(31)開拓使より一足早く北海道へ渡った兵部省は、石狩、小樽国など主要な地を管轄下に置いた。 一方、開拓使は石狩国のうち札幌、厚田、上川、後志国では忍路他7群を管轄下にした。 兵部省の北海道開拓の責..
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會津藩士の蝦夷地移住(30)藩士の苦悩は深まるばかりであった。その後、第二陣が到着し、200戸ほどは小樽一帯の民家に分宿することになった。総取締を宗川が務め、当番の藩士が出勤して役場のような役目を果たした。 『青木日記』に..
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會津藩士の蝦夷地移住(29)14日の申し渡しは、見事なまでの會津藩士への蔑んだ処置ではないか。集会どころか話もできず、親戚を集めてもダメー口惜しいばかりの薩長藩閥政治の會津への酷政だ。 會津藩士への処置は、これだけにとどま..
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會津藩士の蝦夷地移住(28)その頃は、春のニシン漁期と秋の鮭漁期になると妓楼や飲食店は、石狩に出稼ぎに行くので、小樽は空き家が多かった。 第一陣の中隊長は宗川茂友、小隊長は簗瀬辰之助、半隊長が落合経三郎、杉本弥三郎、武藤格..
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會津藩士の蝦夷地移住(27)背後の丘陵が海に迫っていて平地は少ない。こんなオタルナイの明治元年の家の数は200戸ほどで、人口は800人そこそこであった。 疲れ切って上陸した一行が収容されたのは、漁師のニシン番屋か漁師相手の..
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會津藩士の蝦夷地移住(26)さて、余市移住は明治2年(1869)9月21日の朝、アメリカの汽船「コユール号」が蝦夷の西南、積丹半島の麓オタルナイの浜に到着したことに始まる。 東京・品川を13日に出港し、兵部省の役人井上弥八..
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會津藩士の蝦夷地移住(24)さらに、新政府は會津藩士に「會津降伏人」というレッテルをはったことが、會津藩士の誇りを傷つけ、役人に反発させた。 「會津武士は降伏人にあらず」 「われら賊臣にあらず」 という気概は、下僕や百姓..
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會津藩士の蝦夷地移住(23)典型的な例が、藩士への原野開拓割り当て面積だ。1戸に割り当てられた耕作面積は、會津蕃より10年遅く入植した阿波藩士などには1戸1町2反(1,2ヘクタール)から4町歩(4ヘクタール)もあったのに、會津..
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會津藩士の蝦夷地移住(22)『余市町史』編纂で中心的な活動をした余市町栄町、元中学校長前田克己さんは、明治時代の行政を担当したため、史料が豊富な北海道庁の行政資料室(現文書館)に何度も足を運んで會津藩士の余市入植について調べた..
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會津藩士の蝦夷地移住(21)この「緋の衣」は実は、会津の郷土史家の団体、会津史談会の会員90人が平成11年(2000年9月、余市町を訪問し、「開拓記念碑」や藩士の子孫らと交歓した際に、地元農家からもらったものだ。 「緋の衣..
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會津藩士の蝦夷地移住(19)入植地には、子弟教育のため日進館(藩校・日新館と一字違うのは建物がみすぼらしかったためであろう)、講武所が設けられ、會津から取り寄せた漢書などを使用した。 刀を鍬に持ち代えて、未開の原始林を切..