記事「長崎」 の 検索結果 8132 件
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新地荷蔵跡長崎市の新地中華街にある石碑。元禄11年(1698年)の大火で、唐人の貨物を格納していた土蔵33棟、唐船20隻分の全てが焼失したそうです。その後、火災から守るため、元禄15年(1702年)、唐人屋敷前..
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国際電信発祥の地・長崎電信創業の地明治4年(1871年)、デンマークのグレートノーザン電信会社(大北電信)により、長崎・上海、長崎・ウラジオストックの間に海底電線が曳かれ、日本は始めてモールス信号によって、国際的に即時通信が可能になり..
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湊会所跡安政6年(1859年)の開国により、貿易や外交などに関する事務を行う「湊会所」が長崎会所の一部としてオランダ坂のこの地に設置されました。湊会所は一時俵物役所へ移転、その後「運上所」と改称し、現在のみな..
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長崎大学病院開院150周年記念碑長崎市西小島の小島養生所資料館の前に建つ碑。長崎大学医学部の前身となった小島養生所は文久元年(1861年)、オランダ海軍の軍医であったポンぺにより、今の佐古小学校の地に設立されたとのことです。
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南山手居留地跡安政5年(1858年)に安政五カ国条約が締結され、長崎は開港場となり、南山手は外国居留地として造成が始められ、主に住宅地として利用されていました。地区の北側は大浦天主堂や羅典神学校といった宗教施設が、..
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大浦東山手居留地跡鎖国時代から貿易港として機能した長崎港は、万延元年(1860年)から大浦一帯の海岸が埋め立てられて居留地が造成されたとのことです。当初、多数の外国人が押しかけて繁栄しましたが、その後は中国大陸の上海を..
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梅ケ崎ロシア仮館跡文化元年(1804年)9月に、 ロシア使節・ニコライ・レザノフは軍艦ナジェージタ号で長崎に来航して日本との通商を求めました。しかし、幕府は回答を引延ばして、現在は長崎みなとメディカルセンターとなってい..
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運上所跡(長崎)運上所は外国船からの税金徴収や貨物の検査を行うための機関で、文久3年(1863年)、湊会所から改称されました。万延元年(1860年)に築町の俵物役所内に移転後、慶應2年(1866年)に現在のみなとメデ..
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長崎夜景香港、モナコと並ぶ世界三大夜景の一つ、そして、札幌、神戸と並ぶ日本三大夜景の一つです。最近では、世界新三大夜景、日本新三大夜景の一つにも数えられています。稲佐山、銀冠山公園、風頭公園、など長崎の夜景は..
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分析窮理所遺構分析窮理所は、現在の長崎市立仁田佐古小学校の敷地にあった医学に関する学校で、長崎大学薬学部の源流として日本で初めて近代西洋理化学教育(基礎薬学教育)が行われた理化学校。設立は、慶應元年(1865年)の..
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小島養生所跡安政4年(1857年)、長崎海軍伝習所教官として来日したオランダ海軍軍医ポンペは、長崎奉行所西役所に医学伝習所を設立しました。さらにポンぺは、病院の必要性を申し出て、文久元年(1861年)8月、小島郷..
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大隈重信公揺籃の地(フルベッキ博士寓居の地)大隈重信は元治元年(1864年)27歳の時に此処で、フルベッキ博士について英語を学び、翌年には長崎樺島町の諫早屋敷に英語塾致遠館を設立、自らその経営にあたるとともに若者達を教育しました。長崎のこの地で..