記事「京都」 の 検索結果 58894 件
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土御門内裏址里内裏とは平安京内裏の外に臨時に設けられた皇居のこと。現在の京都御苑の西側、蛤御門の向かい側にあるこの里内裏は、鳥羽、崇徳、近衛の3天皇の里内裏として使われたそうです。
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清水谷家の椋京都御苑内京都御所の南西角にある椋の巨木。かつてここに清水谷家という公家の屋敷があったことからの命名とのこと。禁門の変の時、来島又兵衛がこの木の下で討ち死にしたと伝わっています。
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学習院跡幕末の弘化4年(1847年)、公家のための学問所が京都御所の東側に設置され、この学問所は「学習院」と名付けられました。東京の学習院大学は、この「学習院」の流れをくむものです。
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京都御所現在の京都御所は元は里内裏の土御門東洞院殿であった処。南北朝時代から内裏として使われ、南北朝の統一以後に正式な皇居となりましたが、 明治以降、皇居は東京に移り、ここは京都皇宮とも呼ばれるようになりまし..
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花の御所跡花の御所は室町幕府3代将軍足利義満が造営した将軍家の邸宅の通称。2代将軍足利義詮のときに、一時崇光上皇の御所だったことで、このように呼ばれたそうです。ここの石碑には「従是東北足利将軍室町第址」と書かれ..
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百々橋の礎石(室町小学校)百々橋は、寺之内通を流れていた小川(こかわ)に架かる小さな橋で、 この小さな橋が応仁の乱の時の激戦地となりました。その橋の礎石の 一部が、現在室町小学校に保存されています。
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応仁の乱勃発地応仁の乱は、応仁元年から文明9年までの約10年間にわたった内乱。九州の一部を除いた全国が戦場となり、戦国時代への導火線となりました。その応仁の乱が、応仁元年(1467年)1月18日、ここで始まりました..
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尾形光琳菩提所(泉妙院)尾形光琳は江戸時代中期を代表する画家。尾形光琳と弟で陶芸家の尾形乾山が葬られたのが京都市上京区にあった興善院。興善院はその 後、本行院管下となり、さらに泉妙院と合併し現在に至っています。
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百々橋の礎石堀川通の東に陣をおいた東軍と西に陣を敷いた西軍が戦ったのが応仁の乱。その応仁の乱で何度も両軍が戦ったのが、この付近にあった百々橋。百々橋を支えていた4基の礎石の1つがここに残されています。
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山名宗全邸址山名宗全は、室町時代の但馬、備後、安芸、伊賀、播磨を領した守護大名。応仁の乱では、西軍の総大将として戦いましたが、乱の途中に70歳で死去。この辺りを西陣と呼ぶのは、山名邸がここにあったことによるとのこ..
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西陣西陣織で有名な京都の街の地域の名称。応仁の乱の際、避難した職人たちがここの織物技術を日本各地に広めました。西陣の地名の由来は、応仁の乱のときに西軍がこの地域に陣を構えたことによるとのことです。
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禁裏道場蹟応仁の乱のあと、後土御門天皇が伏見に建立したのが般舟三昧院。天台・真言・律・禅の四宗兼学の道場であったため、禁裏道場と呼ばれました。伏見城築城に伴い、伏見から現在地(京都市上京区)に移されたそうです。..