記事「今井兼平」 の 検索結果 9 件
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今井兼平墓(川中島)長野市川中島の今井神社の隣接地にある今井四郎兼平の墓。 今井 兼平は義仲四天王の一人で義仲に従い各地を転戦しましたが、 元暦元年(1184年)正月、琵琶湖の畔の粟津で義仲とともに敗死しました。
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今井神社(長野市)今井兼平を祀った神社で今井兼平の館跡との説もあります。 今井兼平は義仲四天王の一人で、木曽義仲に従って横田河原の戦いに 出陣し、当時「雲井の里」と呼ばれていたこの地に陣を張ったとのことです。
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宝輪寺松本市今井にある厄除けの寺として知られる高野山真言宗のお寺。 安元・治承の頃、今井に住した今井四郎兼平が、このお寺の荒廃を歎いて 祈願寺として再建し、自ら中興の開基となったと伝えられています。
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(84)-後白河院政・三度目の復活-西暦1184年(寿永三年)1月20日、朝廷・院を制圧し、京都を実効支配していた源義仲は、鎌倉より派遣された源範頼・義経軍約五万五千兵と宇治川付近で戦闘になり、大敗しました。 義仲自身は京都を脱出..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(83)-義仲最期の戦い-西暦1184年(寿永三年)1月20日、鎌倉軍は総大将・源範頼率いる本体三万五千騎が、勢多の唐橋(滋賀県大津市)で今井兼平率いる五百騎と戦闘に入り、その間に源義経率いる別働隊二万五千騎が宇治に周り、源義..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(76)-法住寺合戦・開戦-西暦1183年(寿永二年)11月17日、院庁である法住寺を要塞化し、美濃源氏・土岐氏、摂津源氏・多田氏を味方につけ、自勢力を作り上げた策謀家・後白河法皇は、ついに源義仲に最後通牒を突きつけました。 ..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(71)-瀬尾兼康の大博打-西暦1183年(寿永二年)10月10日未明、源義仲の配下・倉光成氏は、成氏の部下で元平家の剛将・瀬尾兼康の裏切りにあい、備中国三石(岡山県備前市三石)の宿で三十人の郎党と共に惨殺されました。 兼..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(60)-倶利伽羅峠の戦い-西暦1183年(寿永二年)5月9日、平家北陸征討軍先発隊の平盛俊は、源義仲四天王の一人である今井兼平と越中国般若野で対峙し、夜襲を受けて敗退しました。 敗退した盛俊は、本体である維盛と合流し、敵..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(59)-越中前哨戦-西暦1183年(寿永二年)4月27日、平家の北陸征討軍総大将の平維盛は、反平家勢力が立て篭もる越前火打城を攻め落とし、反平家勢力を加賀に引きのかせました。その上で加賀に立て篭った林、冨樫の両氏の城を焼..
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