記事「倭の五王」 の 検索結果 28 件
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《史料》倭王武の上表文(『宋書』倭国伝)★史料★ 興死して弟武立つ。 自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王と称す。 順帝の昇明二年、使を遣わして上表して曰く、 「封国は偏遠にして、藩を外..
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4世紀・5世紀の外交(高句麗好太王碑と倭の五王)★基本のまとめ★ ヤマト政権は4世紀末には鉄資源を巡って朝鮮半島に進出し、好太王碑文に残されているように高句麗と戦った。 5世紀には、倭の五王が朝鮮半島の支配を認めてもらおうと中国南朝の宋に使いを..
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五胡十六国時代・南北朝時代の中国と朝鮮半島★基本のまとめ★ 三国時代を統一した西晋は短期間で滅びて南に遷って東晋となり、北部は五胡十六国となった。 北魏が北部を統一してからは南北朝時代となり、南朝では宋・斉・梁・陳と王朝が交替した。 朝..
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古墳時代の流れ(3世紀後半から6世紀のできごと)3世紀 248年頃、邪馬台国の卑弥呼が死去。 この頃、前方後円墳体制が成立し、ヤマト政権も成立か。 265年、魏が西晋にかわる。 266年、倭国の女王が西晋に使いを送る。(『晋書』) ..
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北方領土を考える(4)日本の海外進出の歴史は古代に遡る。四世紀末の神功皇后の三韓征伐から、五世紀に繋がる倭の五王の時代があった。朝鮮半島南部に居住する倭人を足がかりにして、その本拠地の任那には天皇の直轄地の屯倉(宮家)を..
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安田靫彦展(その2)昭和15年〜16年(1940年〜41年)制作の「黄瀬川陣」について、「古典や歴史から学ぶだけでなく、今を生きる人々に届く時代の感覚を盛り込みたい」と、NHK「日曜美術館」は靫彦の言葉を紹介している。..
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邪馬台国の遷都(14)日本国内を二分する非常事態に朝鮮半島が絡む状況があったとしたら、第36代孝徳天皇が大阪湾を臨む難波に遷都したことも理解できる。これまでに取り上げた大和盆地以外に遷都した六代の天皇と同様に、孝徳天皇は..
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邪馬台国の遷都(13)残る二代は150年ほど時代が下った七世紀の第36代孝徳天皇と第38代天智天皇である。645年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)らによる蘇我入鹿暗殺事件「乙巳(い..
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邪馬台国の遷都(12)話しを元に戻すと、第16代仁徳天皇は、対中貿易で利益を上げるには大和盆地に引きこもっている訳にはいかなかったと想像する。難波高津宮への遷都は必ずしも戦に備えた訳ではなかったようだが、大陸交易の権益確..
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邪馬台国の遷都(11)昭和53年(1978年)、10年前に埼玉県行田市の稲荷山古墳で発掘された鉄剣をX線調査したところ、金象嵌で刻まれた「獲加多支鹵(わかたける)大王」の文字が浮かび上がった。鉄剣の持主が“わかたける大王..
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邪馬台国の遷都(10)古事記には「秦人(はたびと)を役(えだ)ちて茨田堤また茨田三宅を作り」(岩波文庫より)と書かれて、「弓月君(ゆづきのきみ)が連れて来た中国からの帰化人を使役して」との注釈がつく。弓月君は秦の始皇帝の..
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大和の大王の在位年の推定この時代の天皇認定は後付けであるとし、空位・並立があったことを想定する。倭の五王であるためには北部九州に交易拠点を持つ必要があるため、大和を支配した実績のない王は記紀に記録される大和朝廷の大王にはなら..