記事「八丁堀」 の 検索結果 885 件
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写楽の探し方 5 屋敷内で浮世絵?(承前) 年出来事寛政三年六月 暁雲院釈素元居士 当時 八丁堀 松平阿波守様内居住 斎藤右与衛門 事寛政十年十二月 貞楽院釈善信女 南八丁堀 松平阿波様内 斎藤重郎兵衛 祖母寛政十一年三月 釈智閑童..
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小説・写楽 9 湖龍斎からの書面(承前) 30枚近い下絵を部屋中に広げ、膳も取り払った座敷の中央に座り込んだ山東京伝が、ため息混じりに呟いた。 「へーっ、これが湖龍斎の手とはねぇ、それに、まだお江戸にいたとは知らなかった、..
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【ラーメン修行2023 今年26杯目】江戸甘味噌の冷やし麺、ガパオライス(麺や 七彩八丁堀店 八丁堀)●ラーメンデータ 日時:4月25日18時 店名・情報:麺や 七彩八丁堀店 最寄駅:八丁堀 品名(価格):江戸甘味噌の冷やし麺、ガパオライス 評価:90/100 過去の訪問: 1回目:..
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松平定信と写楽 10 方角分の功罪?(承前) 先ず、素朴に浮かぶ疑念が、 斎藤月岑が若し「方角分」と「浮世絵類考」(三馬の加筆写本)を見たとして、 その「写楽斎」と、現実に文政三年(1820)まで八丁堀地蔵橋で生活していた..
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松平定信と写楽 9 月岑の情報源は?(承前) 式亭三馬の書き込みの検証は以前何度も行っていますのではしょりますが、物書きとしての「眼(見識)」を持っていた彼は、頭のどこか片隅で『この写楽斎は東洲斎写楽とは別人なのかも知れない』と一抹..
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松平定信と写楽 8 地蔵橋周辺の住人(承前) 嘉永六年版絵図によれば「地蔵橋」の前で道路が交叉し、元板倉邸だった敷地には北から順に①飯尾藤十郎(北町同心)、②斎藤与右衛門(十郎兵衛の子息)、③村田治兵衛(本人は既に他界)、④中田円助..
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松平定信と写楽 7 地位に拘る南畝(承前) 別項の『方角分』分析でも南畝の「村田春海に対する、余所余所しい」姿勢を取り上げましたが、今回上の人脈図を作成してみて、南畝の態度の原因が恐らく松平定信(に象徴される権力機構)の存在、影響..
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松平定信と写楽 6 「方角分」への疑問(承前) 一方「同所」を岡田藤助の住む「お玉が池」だと解釈すると「もと神田の住人」という先の説明書きとも整合しますし、何より彼の養子先である谷口鶏口の住宅が神田お玉が池にあって、彼の教え子斎藤月岑..
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松平定信と写楽 1 月岑と月窓写楽探しの旅を長く続けていると、ふと気が付いたら、とんでもない袋小路に入り込んでいたり、自分では予測もしなかった摩訶不思議な「思考」の亜空間に迷い込んでしまい身動きが取れず、余りの取り留めの無さ..
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写楽斎と八丁堀 2 伊能忠敬(承前) さて、その蔵伎が住んでいたとされる「亀島町」なのですが、本来、八丁堀の土地は全て奉行所に勤める与力、同心たちが幕府から拝領した武家地なので、町人たちの町並みのように「何々町」という名称が..
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写楽斎と八丁堀 1 此道くらき江戸後期、文芸の分野で大いに活躍した大田直次郎(南畝、蜀山人)が大変に筆まめな人物であったお蔭で、二世紀もの時を隔てた今、私たちは当時の細々とした出来事、風物等のあれこれを手に取るように知ること..
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新川、湊界隈の風景中央区八丁堀、新川、湊界隈はビルが立ち並んでいます。 江戸時代は鉄砲洲と呼ばれていた地域ですが、現在は新川とか、湊、明石町になっています。 JR八丁堀の駅出口の地名は新川ではないでしょうか..
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