記事「古戦場」 の 検索結果 403 件
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設楽原長篠の戦いは、天正3年(1575年)5月21日三河国長篠城をめぐり、 3万8千の織田・徳川連合軍と、1万5千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦。 決戦地が設楽原だったため長篠設楽原の戦いと記す場合もあり..
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徳川家康本陣跡(八剱神社)天正3年(1575年)5月、徳川家康は武田軍に包囲された長篠城を救援 するため、織田信長と共に設楽が原に出陣し、弾正山に本陣をおいて、ここ から東へ約300mの所を流れる「連吾川」を挟んで武田軍と..
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小坪坂治承4年(1180年)、伊豆で挙兵した頼朝軍への合流が遅れた三浦一族の 軍勢と、同じく石橋山合戦に平家方として参戦しようとしていた畠山重忠の 軍勢が遭遇して合戦となった、「小坪合戦」が起こった場所..
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四郎作古戦場景徳院から約500m、鳥井畑古戦場から約200mのところにある古戦場。 甲斐武田家滅亡の時、鳥井畑古戦場と同様に、武田勝頼の自刃の時を 稼ぐため、小宮山友晴などの忠臣が織田軍と激戦をしたところです..
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鳥井畑古戦場現在、景徳院のある山梨県甲州市の田野で、甲斐武田氏は滅亡しました。 その際、武田勝頼等の自害の時を稼ぐために、この地で激戦が行われ、 小宮山友晴、秋山紀伊守光継、阿部加賀守、等の忠臣が討死にしまし..
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姫が淵碑山梨県甲州市大和町田野にある景徳院の駐車場に碑が建てられています。 武田勝頼と共に落ち延びた北条夫人の身辺の世話をしていた侍女16名も、 武田氏の滅亡と共に命を絶ったとされ、その場所が姫が淵と呼ば..
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粟津原寿永3年1月21日(1184年3月5日)、近江国の琵琶湖畔粟津原で、 木曽義仲と源頼朝派遣の東国諸将との間で行われたのが、粟津原の戦い。 多勢に無勢の義仲軍は壊滅し、木曽義仲と今井兼平は討死にをし..
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蛤御門京都御苑の外郭九門の一つで、正式には「新在家御門」。幕末の元治元年 (1864年)の蛤御門の変(禁門の変)の激戦が行われた場所として有名。 当時は、現在よりも東に30メートルのところに南向きにたっ..
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応仁の乱勃発地応仁の乱は、応仁元年から文明9年までの約10年間にわたった内乱で、 九州の一部を除いた全国が戦場となり、戦国時代への導火線となりました。 その応仁の乱が、応仁元年(1467年)1月18日、ここで始..
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百々橋の礎石堀川通の東に陣をおいた東軍と西に陣を敷いた西軍が戦ったのが応仁の乱。 その応仁の乱で何度も両軍が戦ったのがこの付近にあった百々橋。百々橋を 支えていた4基の礎石の1つがここに残されています。
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西陣西陣織で有名な京都の街の地域の名称。応仁の乱の際、ここから避難した 織物職人たちが、京の織物技術を日本の各地に広めました。地名の由来は、 応仁の乱のときに西軍がこの地域に陣を構えたことによるとのこ..
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畠山重忠遺烈碑二俣川は元久2年6月に畠山重忠軍と北条軍の激戦が行われた所です。 明治25年(1892年)に、二俣川駅南口から南方方向に程なく行った所の 現在の県営万騎が原団地の一角に、地元有志により碑が建立され..