記事「小牧長久手の戦い」 の 検索結果 26 件
-
清洲城織田信長の初期のころの居城で、桶狭間の戦いもこの城から出陣しました。 本能寺の変の後、清須会議が開かれた場所としても知られています。また、 小牧長久手の戦いの時は織田信雄の居城でした。
-
小牧山城織田信長が桶狭間の戦いの後、美濃攻略の拠点として築城した城。美濃攻略 後、信長が岐阜に本拠地を移すと小牧山城は廃城となりましたが、小牧長久手 の戦いでは、徳川家康の本陣として重要な役割を果たしました。..
-
二重堀砦跡小牧長久手合戦の折、秀吉方が築いたとされる砦の跡。 徳川方の小牧山に対する最前線の砦で、日根野備中守弘就が布陣。 現在は砦の遺構などは全くなく、小さな祠と碑があるのみです。
-
岩崎山砦跡岩崎山砦は天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いの時に築かれた秀吉方の砦。 徳川、織田連合軍の拠点である小牧山を望むことができる最前線の砦で、 稲葉一鉄が4千の兵を率いて布陣したと伝わっています。..
-
楽田城跡楽田城は犬山城と小牧城のほぼ真ん中にある平城。小牧長久手の戦いの際には羽柴秀吉も入り、羽柴軍の拠点となった城です。また、天守が つくられたことが記録に残る最古の城だそうです。
-
羽黒古戦場小牧長久手合戦の緒戦になったのが羽黒(八幡林)の戦い。 岳父の池田恒興とともに秀吉方についた森長可は3千の兵力で羽黒に出陣。 徳川方の酒井忠次等の5千の軍がこの森軍を攻撃して敗走させました。
-
野呂塚天正12年(1584年)の小牧長久手合戦の始まりとなった古戦場。 南下してきた羽柴方・森長可勢と北上してきた徳川方・酒井忠次勢が戦い、 森勢は敗走、その時、森勢の野呂助左衛門が討死をしたのがこの場所と..
-
中川清蔵主の碑天正12年(1584年)、池田恒興が突如犬山城を攻撃し、これが小牧長久手合戦の発端となりました。 犬山城は落城し留守を預かっていた中川清蔵主は討死。 その討死をした所に榎が植えられて榎塚と呼ばれるよう..
-
犬山城木曽川沿いの高さ約88mの丘の上に築かれた城で別名は白帝城。現存 天守12城の1つで、天守閣は国宝にもなっています。小牧長久手の戦いはこの城の争奪戦から始まりました。
-
木下勘解由塚長久手の戦いでの羽柴軍の総大将は三好信吉(後の豊臣秀次)。羽柴軍はこの戦いで敗れ、三好信吉も馬を失い徒歩で敗走しました。 この時、自分の馬を信吉に譲り自らは討死したのが木下勘解由利匡です。
-
堀久太郎秀政本陣地跡長久手の戦いで秀吉方の武将、堀秀政が本陣をおいたとされる場所。 堀秀政は小牧長久手の戦いに軍艦として進軍、桧ヶ根の戦いで徳川方の榊原康政軍を撃退し、これが秀吉方の唯一の勝利となりました。
-
首塚(長久手)羽柴軍が徳川軍の後方を突こうとして発生したのが長久手の戦い。 この戦いでは多くの戦死者が出ましたが、安昌寺の雲山和尚は村人たちと ともに、野晒しにされた多くの亡骸をこの地に集め手厚く葬ったとのことです..
- 前へ
- 次へ