記事「山口」 の 検索結果 4036 件
-
纏向宮 2※「由来書」とは『地下上申』(享保~寛永の地誌)のうち、小村・神社等の由緒を記録したもので『地下由来書』ともいう。 「注進案」とは『防長風土誌注進案』(天保13年~弘化3年の地誌)をいう。 ..
-
纏向宮 1景行天皇は周防の娑麼の方からやってきた。山口県防府市の佐波だとされている。万葉集を読むと纏向宮へ行くには、曲がりくねったとても険しい山道を手を引かれ足を痛めて登り、そこに弓月岳という城山がある。 ..
-
淋聖太子山口県瀬戸内側の厚狭~山口市・防府市~下松市にかけて、百済の聖明王の第三子である淋聖太子の伝承がある。 戦国時代の大内氏は淋聖太子の子孫という。 山口県では淋聖太子は有名な伝説的人物である。 ..
-
地名の高天原高天原という地名がある場所は、 島根県出雲(簸川郡)の日御碕に高天原古墳があり、小字「高天原」がある。 山口県宇部市の東須惠に小字「高天原」があり、浄水場になっている。景行天皇が筑紫(大分..
-
邪馬台国山口説垂仁紀の「近江国に入りて、東 美濃を廻りて、伊勢の国に到る」(岩波文庫 日本書紀2巻 P38)の美濃は広島県沖美町の西能美島の北端の美能である。 伊勢は宮島である。 広島の宮島が伊勢なら、倭(..
-
御金高山口県下関市の福江の小字に「王仁」。 王仁(岩波文庫 書紀2巻 P206)は百済の人である。 壱岐勝本町の立石南の小字に「金高」がある。どんな場所か知らないが、 万葉集3293に み吉..
-
壱岐は日本の首都だった感動の邪馬台国九州説 壱岐は日本の首都だった。 雄略紀(岩波文庫 日本書紀3巻 P60末~62) 吉備上道采女大海が新羅・百済から日本に帰ってきた。 角国(周防国都濃郡)とされる柳井市の茶..
-
海神海人―近海で操業する漁師 海神―貿易商社の武装豪族 阿曇連 少彦名命(侏儒国の人)で、海若ともいい、南方系海神である。 万葉集354の日置少老の日置は鹿児島県日置郡をいい、「少」は少彦名命..
-
山口県宇部市古事記の竺紫日向高千穂は対馬北端の向日郷で、橘の小戸の檍原の檍(あはき)の木は鰐浦の国指定天然記念物のヒトツバタゴ(ナンジャモンジャ)である。 山幸彦が鰐浦・豊で釣りをしていたなら塩椎神は椎根島の人..
-
山口でSL : SLやまぐち号会津でのSLを掲載したので、今度は大昔に撮影したやまぐち号の写真を掲載したいと思います。 1987年4月新山口駅(旧小郡駅)の近くと2004年7月津和野周辺で撮影したものです。 懐かしすぎます..
-
山口旅行6日目5日目を終えて楽しい旅行もついに最終日を迎えた6日目です 気分はまさにこんな感じでした ∩00 ∩ │ やられた…… ..
-
山口旅行5日目(下関編その3)城下町長府散策が終了し次に向かったのは櫛崎(くしざき)城址 バス停を降りてすぐのとこから城址のある山が見えます 山の上にクジラがいるのが見えますか? 城址もかすかに見えています ..