記事「斎藤十郎兵衛」 の 検索結果 39 件
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写楽の探し方 6 能役者の余技なのか(承前) 一方、江戸幕府は三百数十名もの能役者を抱え、その実態は、 幕府や諸藩は 能楽の保護者であると同時に厳しい監督官でもありました。 頻繁に出される厳しい通達によって、技芸の鍛錬と伝統..
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写楽の探し方 5 屋敷内で浮世絵?(承前) 年出来事寛政三年六月 暁雲院釈素元居士 当時 八丁堀 松平阿波守様内居住 斎藤右与衛門 事寛政十年十二月 貞楽院釈善信女 南八丁堀 松平阿波様内 斎藤重郎兵衛 祖母寛政十一年三月 釈智閑童..
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写楽の探し方 4 過去帳の記録(承前) 五つ目の手がかり=言うまでも無く、江戸の浮世絵版画界で写楽が活躍したのは200年以上も前の出来事なのですが、その作品を実際に作り出した「彫師」「摺師」といった職人たちの業を引き継ぐ人々の..
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写楽・旧考 6 長喜も真似た写楽(承前) このページの最初に紹介した「写楽=能役者説」は、江戸の町名主・斎藤市左衛門(号は月岑・げっしん。1804年生まれ)が「追補」の中で次のように述べている文言が基盤になっているものです。(つ..
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写楽・旧考 2 寛政の時代(承前) 曰く「写楽は能役者の斎藤十郎兵衛(さいとう・じゅうろべえ)である」「いやいや、そうじゃない。版元の蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう,1750~1797)こそ写楽に違いない」「それは違う..
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松平定信と写楽 13 写楽斎と洒落斎(承前) 斎藤月岑の家での一コマ・これはフィクションです。 『うちの二丁目で店を出している多吉は知ってるね。頼みたい事があるんで、 来るように言っておくれ。わたしは離れに居るから』 ..
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松平定信と写楽 11(承前) 再び人脈図に話を戻します。国学者で著名な歌人でもある村田春海は、地蔵橋角の家で「歌学」のお師匠さんとして暮らしていましたが、県門四天王(賀茂真淵の優秀な弟子たち)の一人に数えられた村田の..
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松平定信と写楽 10 方角分の功罪?(承前) 先ず、素朴に浮かぶ疑念が、 斎藤月岑が若し「方角分」と「浮世絵類考」(三馬の加筆写本)を見たとして、 その「写楽斎」と、現実に文政三年(1820)まで八丁堀地蔵橋で生活していた..
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松平定信と写楽 9 月岑の情報源は?(承前) 式亭三馬の書き込みの検証は以前何度も行っていますのではしょりますが、物書きとしての「眼(見識)」を持っていた彼は、頭のどこか片隅で『この写楽斎は東洲斎写楽とは別人なのかも知れない』と一抹..
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松平定信と写楽 8 地蔵橋周辺の住人(承前) 嘉永六年版絵図によれば「地蔵橋」の前で道路が交叉し、元板倉邸だった敷地には北から順に①飯尾藤十郎(北町同心)、②斎藤与右衛門(十郎兵衛の子息)、③村田治兵衛(本人は既に他界)、④中田円助..
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松平定信と写楽 7 地位に拘る南畝(承前) 別項の『方角分』分析でも南畝の「村田春海に対する、余所余所しい」姿勢を取り上げましたが、今回上の人脈図を作成してみて、南畝の態度の原因が恐らく松平定信(に象徴される権力機構)の存在、影響..
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矢場は「ヤバい」場所なのか言葉は人が使う事で持続するエネルギーを補填する。だから、人が使わなくなれば世の中から姿を消して行く。また、言葉は生き残りの過程で、本来の意味を大きく変化させる場合もある。 一説によれば、本来「あぶな..
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