記事「日中戦争」 の 検索結果 127 件
-
軍都・若松(112)昭和17年(1942)10月21日、陣容を一新した歩兵65聯隊は、湖北省江陵県沙市に移動し、以後、同地区の警備に任じた。11月4日には資福寺付近で戦闘が勃発し、20日から三湖作戦が始まった。4日ほど..
-
軍都・若松(111)65聯隊は昭和17年(1942)1月から湖北省龍泉鋪付近の警備を担当し、3月には湖北省宣都県紫金嶺地区に移駐して同地区の警備を担当した。この間、聯隊の第2大隊は依然、龍泉鋪の警備にあたった。 5..
-
軍都・若松(108)昭和16年(1941)9月28日、湖北省宣昌周辺での戦闘が続いた。10月15日、第13師団は第二次長沙作戦のため、第26旅団を抽出したため宣昌付近は第103旅団(歩兵65、104聯隊)のみとなって兵..
-
軍都・若松(107)昭和15年(1940)8月から10月まで7次にわたる補充を受け、12月20日には陸軍少尉中野春郷以下56名で臨時迫撃砲隊を編成した。65聯隊は中支軍の最前線部隊として龍泉鋪に本部を設け、同地区に陣地..
-
軍都・若松(106)65聯隊は漢水の奇襲渡河に成功し、爾後、建陽駅、河容鎮、半月山、石子嶺、龍泉鋪などを攻略して宣昌北方地区一帯を手中に収めた。こられの戦闘で第3中隊長松本中尉、第4中隊長矢部中尉、第9中隊長天野中尉以..
-
軍都・若松(105)昭和14年(1939)10月、将校と下士官兵併せて449名の補充を受け、湖北省で冬期作戦に入った。65聯隊は漢水、河畔旧口鎮付近を警備中、敵の冬期攻勢に遭い、聯隊の正面に約3万が漢水を渡河して陣地に..
-
軍都・若松(104)昭和14年(1939)5、6月にかけ三次に亘って補充兵がきた。将校、見習い下士官に兵併せても21名であった。充分な兵力でなく、本国の窮状が手に取るように分る。 8月5日、襄東会戦の功により下記の..
-
軍都・若松(103)昭和13年(1938)10月10日、第11次補充として兵80名が着任。12月1日、65聯隊長の両角業作陸軍大佐は本郷聯隊区司令官に抜擢され、後任に第20師団付の吉田弘陸軍大佐が着任した。 陣容..
-
軍都・若松(102)昭和13年(1938)6月から7月にかけて第7~10次の補充員が到着し、計127名が着任した。8月26日から安徽省史河河畔の戦闘が開始され、9月には大別山突破作戦に移った。 そして10月25日..
-
軍都・若松(101)昭和12年(1937)12月15日、65聯隊は南京付近の警備にあたり、17日には第四次補充員が到着した。将校13名、下士官と兵414名、計427名であった。翌年正月3日には第五次として将校8名と下士..
-
軍都・若松(99)聯隊が受けた損害があまりに大きかったので、本部は第一次、第二次に分けて将兵を補充してくれた。第一次は下士官と兵併せて55名、第二次が将校24名、下士官と兵399名計423名だった。失った分の8割弱に..
-
1937年11月の猪間驥一今回の記事は、私以外の人には何の意味もないものだと思うのですが、この時期あたりの猪間の足取りを追っている私にとっては重要なものなので、あえてメモを残します。 猪間が、1937年5月・6月・7月の3回..