記事「有沢広巳」 の 検索結果 44 件
-
指導教官が求めたこと①【2012年4月26日】 私が最初に博士論文の草案を提出したときの返信メールです。このときはまだ、指導教授がマルクス主義的歴史観のもち主であることに気づいていませんでした。 和田様 ざっと..
-
猪間驥一の助教授昇格問題今回は、飛び込みの情報ですが、ご興味がある方もあるかと思い…。 以前から、河合栄治郎の日記の原本がないのか、いつか時間ができたら確かめてみようと思ってきました。河合がヨーロッパ留学から帰国して..
-
『経友』から新たな事実3有沢広巳が『経友』第6号に発表した「糸井先生と私」という追悼文は、基本的には、糸井靖之のどこかに憂鬱の影がつきまとっていたことに自分だけが気づいていたこと、その憂鬱は、森戸事件に際して現れたような、..
-
『経友』から新たな事実2最後の第6号のことから先に書きます。 冒頭に大内兵衛の撮影になる故糸井靖之の写真が掲げられています。1923年8月とありますから、大内が糸井と別れる直前のものだということがわかります。 『経..
-
『経友』から新たな事実1◆近況のご報告 先月末、博士論文を書いて提出するところまで行きました(受持ちの先生には提出の方法を教えてもらえないし、事務室では自分たちには教えられないといわれるし、これはこれでたいへんでした)。..
-
猪間追放「後」の派閥抗争大内は、『経済学五十年』(東京大学出版会、1960年)で、東大経済学部の草創期を振り返り、学内対立が起ったのは経済学部独立から10年たった頃であるとして、次のような主張を展開しています。 後年の..
-
有沢広巳と森戸事件の空白有沢広巳「わが思い出の記:森戸事件のあとさき(二)」(『エコノミスト』1956年4月号)を読み直して、改めて気づいたことがありました。 【教授会の責任を問う】 森戸事件のさなかに、ちょうど大正..
-
森戸事件と大内兵衛の欺瞞1前回取り上げた大内兵衛の3冊の本のうち、『私の履歴書』には森戸事件の概要がまとめられており、これを当時の新聞記事と照合すると、大内のごまかしがはっきり見えてきます。 それでいよいよ森戸君と僕は起..
-
猪間驥一と日本統計学会1「社会統計学・論文ARCHIVES(人生という森の探索)」というサイトで、森田優三『統計遍歴私記』(日本評論社、1980年)が紹介されており、そこに猪間驥一の名前が出ていたので、さっそく読んでみまし..
-
河合栄治郎クーデター事件猪間驥一の東大追放事件から1年余り後に起った「河合栄治郎のクーデター」、このことについてはすでに書いているのですが、正確さに欠けるところがあったので、あらためて整理しておきます。 1922年11..
-
転向していた、鈴木武雄3鈴木武雄が「転向していた」といっておいて、いまさらですが、鈴木自身は、そこまで思ってなかったようでした。 念のためと思って、1973年の『エコノミスト』を調べてみたら、『鈴木武雄――経済学の五十..
-
転向していた、鈴木武雄2よく考えてみれば、「湛山の公職追放と共産党」(2015年7月18日)で述べた、『真相』の記事「石橋湛山の戦犯記録――これでも自由主義者」中の、「昭和18年の秋、『大陸東洋経済』を朝鮮京城に創刊して、..
- 前へ
- 次へ