記事「東洲斎写楽」 の 検索結果 77 件
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松平定信と写楽 13 写楽斎と洒落斎(承前) 斎藤月岑の家での一コマ・これはフィクションです。 『うちの二丁目で店を出している多吉は知ってるね。頼みたい事があるんで、 来るように言っておくれ。わたしは離れに居るから』 ..
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松平定信と写楽 12 田善の師匠は不明(承前) 月僊・月窓の背後に時代を動かすほどの巨大な勢力の陰を見るのは余りにも穿った見方でしょうか?画の巧い領民の一人(永田善吉)を伊勢参りにかこつけて月僊の許に送り込み、更には銅版画の技術習得を..
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松平定信と写楽 11(承前) 再び人脈図に話を戻します。国学者で著名な歌人でもある村田春海は、地蔵橋角の家で「歌学」のお師匠さんとして暮らしていましたが、県門四天王(賀茂真淵の優秀な弟子たち)の一人に数えられた村田の..
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松平定信と写楽 10 方角分の功罪?(承前) 先ず、素朴に浮かぶ疑念が、 斎藤月岑が若し「方角分」と「浮世絵類考」(三馬の加筆写本)を見たとして、 その「写楽斎」と、現実に文政三年(1820)まで八丁堀地蔵橋で生活していた..
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松平定信と写楽 9 月岑の情報源は?(承前) 式亭三馬の書き込みの検証は以前何度も行っていますのではしょりますが、物書きとしての「眼(見識)」を持っていた彼は、頭のどこか片隅で『この写楽斎は東洲斎写楽とは別人なのかも知れない』と一抹..
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松平定信と写楽 6 「方角分」への疑問(承前) 一方「同所」を岡田藤助の住む「お玉が池」だと解釈すると「もと神田の住人」という先の説明書きとも整合しますし、何より彼の養子先である谷口鶏口の住宅が神田お玉が池にあって、彼の教え子斎藤月岑..
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松平定信と写楽 5 シーボルト事件(承前) 更に「山興」の孫弟子で、斎藤月岑の師匠・谷口月窓が八丁堀に住んだ可能性が全くないとは断言できませんが『月岑日記』の天保四年八月十四日の項に、 高木萬右衛門殿へ行く、西久保へ行く、月..
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松平定信と写楽 4(承前) 「江戸方角分」の真の編者が誰であれ、寛政から文化文政にかけての画壇の事情に大変詳しかったとは言えないまでも、普通の絵師つまり画家と単なる浮世絵師との違いくらいは認識していたでしょう。「方..
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松平定信と写楽 3 定信の号は楽翁(承前) 松平定信(1759~1829)が、あの有名な将軍徳川吉宗の孫であることは皆さんも良くご存知のことでしょう。「寛政の改革」を実施した幕府組織のトップでもあった彼が、1812年に隠居した後に..
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松平定信と写楽 2 月僊がお膳立て(承前) 答えは月僊という人の履歴の中に見つかりました。彼は俗姓を丹家氏という商家の子息でしたが、家業は継がず十代で江戸に出ます。そして芝の増上寺で修業し大僧正定月から月僊の号を得ます。僧侶として..
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松平定信と写楽 1 月岑と月窓写楽探しの旅を長く続けていると、ふと気が付いたら、とんでもない袋小路に入り込んでいたり、自分では予測もしなかった摩訶不思議な「思考」の亜空間に迷い込んでしまい身動きが取れず、余りの取り留めの無さ..
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写楽と戀川春町 4 筆禍は事実だったか(承前) 大正期の新聞人・宮武外骨(1867~1955)も『青本年表』という資料の「寛政元年の項」を引用した形で、恋川春町が「筆禍」に遭い「秋七月をもって不帰の客となった」と自らの著書『筆禍史』(..