記事「松平定信」 の 検索結果 43 件
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児雷也 4 鬼武・十年行方知れず(承前) 読者の皆さんも、写楽研究家たちにとって無くてはならない唯一の同時代資料に『諸家人名江戸方角分』という写本があることはご存知かも知れませんが、その「浅草」の項に「『戯作者』印 鬼武 千光院..
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【入門】江戸時代中期・後期の流れ◆まとめ◆ 元禄時代(18世紀初まで) 徳川綱吉(5代将軍) 経済活動が活発。元禄文化。 ↓ 正徳の治(18世紀初) 新井白石 財政改革を試みる。 ↓ 享保の改革(18世紀前半)..
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某国営放送 vs 某民間放送 『大奥』を挟んだ泥沼のヘイト合戦勃発! 聖女様が元の大腹黒に先祖がえりしたかと思えば、お公家上がりの将軍御台所が来季は女郎にまで転落と報じられたり…二十四節気は成程正確、昨日は異様なバカ陽気でした。 そんな中、花壇兼茶殻処理場に目を向ければです。 今年はボケの狂い咲きがなく未だツブヅフ付棒っ杭のままなのですが、根元のカタバミが… そうな..
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写楽・旧考 2 寛政の時代(承前) 曰く「写楽は能役者の斎藤十郎兵衛(さいとう・じゅうろべえ)である」「いやいや、そうじゃない。版元の蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう,1750~1797)こそ写楽に違いない」「それは違う..
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続・今年の某国営大河は『どうする家康』でなく、ドラマ10でやった『大奥』(よしながふみ原作)の方が、いかったんじゃないですかねえ?昨日は風つえぇに悩まされた一日でありました。 いえね、朝方は大した事なかったんですよ。 某SNSで(今となれば一昨日である)昨日の午後は強かったけど今は静かなものなんてつぶやいて。 いい調子..
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2373 あれ「マツムシ」が 涼風の散歩道に抗議文「貴重なマツムシ(ちんちろりんと鳴く)の住む風とおしのよい土手の草を全部刈るのはなげかわしいです」。散歩コースの調整池の斜面に、厚紙で書いた抗議文が掲示されているのを見た。夕方以降散歩はしないから、私..
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松平定信と写楽 12 田善の師匠は不明(承前) 月僊・月窓の背後に時代を動かすほどの巨大な勢力の陰を見るのは余りにも穿った見方でしょうか?画の巧い領民の一人(永田善吉)を伊勢参りにかこつけて月僊の許に送り込み、更には銅版画の技術習得を..
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松平定信と写楽 7 地位に拘る南畝(承前) 別項の『方角分』分析でも南畝の「村田春海に対する、余所余所しい」姿勢を取り上げましたが、今回上の人脈図を作成してみて、南畝の態度の原因が恐らく松平定信(に象徴される権力機構)の存在、影響..
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松平定信と写楽 5 シーボルト事件(承前) 更に「山興」の孫弟子で、斎藤月岑の師匠・谷口月窓が八丁堀に住んだ可能性が全くないとは断言できませんが『月岑日記』の天保四年八月十四日の項に、 高木萬右衛門殿へ行く、西久保へ行く、月..
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松平定信と写楽 4(承前) 「江戸方角分」の真の編者が誰であれ、寛政から文化文政にかけての画壇の事情に大変詳しかったとは言えないまでも、普通の絵師つまり画家と単なる浮世絵師との違いくらいは認識していたでしょう。「方..
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松平定信と写楽 3 定信の号は楽翁(承前) 松平定信(1759~1829)が、あの有名な将軍徳川吉宗の孫であることは皆さんも良くご存知のことでしょう。「寛政の改革」を実施した幕府組織のトップでもあった彼が、1812年に隠居した後に..
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松平定信と写楽 2 月僊がお膳立て(承前) 答えは月僊という人の履歴の中に見つかりました。彼は俗姓を丹家氏という商家の子息でしたが、家業は継がず十代で江戸に出ます。そして芝の増上寺で修業し大僧正定月から月僊の号を得ます。僧侶として..
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