記事「源義仲」 の 検索結果 49 件
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(77)-法皇、敗れる-西暦1183年(寿永二年)11月19日、自らの手勢を三千騎あまりを七条河原に集めた源義仲は、全軍を率いて法住寺西門に突っ込ませました。世に言う「法住寺合戦」の始まりです。 この時、院は義仲が攻め..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(76)-法住寺合戦・開戦-西暦1183年(寿永二年)11月17日、院庁である法住寺を要塞化し、美濃源氏・土岐氏、摂津源氏・多田氏を味方につけ、自勢力を作り上げた策謀家・後白河法皇は、ついに源義仲に最後通牒を突きつけました。 ..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(75)-法皇の反撃-西暦1183年(寿永二年)閏10月、法皇の院宣を受けて西国の平家追討に赴いていた源義仲は、京都留守居役の樋口兼光の要請により、急ぎ京都に戻りました。 義仲はそこで後白河法皇が鎌倉の源頼朝と連絡を..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(74)-根くらべ-西暦1183年(寿永二年)閏10月14日、平氏追討の院宣を受けて西国に出向いていた源義仲が、軍勢を率いて京都に戻ってきました。 帰還の理由は、京都に留守居役として残していた樋口兼光から、「行家の..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(71)-瀬尾兼康の大博打-西暦1183年(寿永二年)10月10日未明、源義仲の配下・倉光成氏は、成氏の部下で元平家の剛将・瀬尾兼康の裏切りにあい、備中国三石(岡山県備前市三石)の宿で三十人の郎党と共に惨殺されました。 兼..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(73)-義仲・激昂する-西暦1183年(寿永二年)10月9日、後白河院は、右大臣・九条兼実の薦めに従い、小除目(人事)を発表し、源頼朝を従五位下に復位させ、罪人の地位を取り消しました。ただし、この小除目は官位のみの記載で、職..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(72)-法皇と兼実-源義仲が瀬尾兼康の反乱を沈めている頃、京都では後白河法皇が暗躍しまくっていました。 法皇は、去る10月1日頃に中原康定が持ち帰った源頼朝の書状を読み、神仏への敬意、朝廷への敬意等、物事の筋目の立..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(69)-法皇、動く-西暦1183年(寿永二年)8月20日、故・高倉天皇(安徳天皇の父帝)の第四皇子・尊成親王は、後白河法皇の院宣を拠り所として、践祚(皇位を継承すること)・即位(天皇になること)して、後鳥羽天皇となられま..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(68)-後鳥羽天皇の誕生-西暦1183年(寿永二年)8月10日夜、西国に逃亡した平家で唯一の公卿である平時忠(正二位/権大納言)から、京都の院庁(法住寺)に書状が届けられました。 これは、もともと院が時忠宛に「三種の神器..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(67)-源氏の恩賞、平家への裁き-西暦1183年(寿永二年)7月30日、この日、公卿議定(朝廷会議)が行われました。この日の大きな議題は、「賊軍」となった平家を京都から追放した源氏への恩賞をどうするかでした。 左大臣・藤原経宗は..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(66)-平家追討-西暦1183年(寿永二年)7月25日、平家一門は棟梁である平宗盛以下、京都を脱出し、西国(福原)へ逃れました。しかも幼い天皇(安徳天皇)を連れて。 しかし、平家が西国への逃走を計画していることを..
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鎌倉幕府が出来るまでの黒歴史(64)-比叡山延暦寺の葛藤-西暦1183年(寿永二年)6月1日、加賀国篠原(石川県加賀市旧篠原村地区)で、平維盛(重盛嫡男/小松家当主)率いる北陸平家追討軍を大敗北に陥れた源義仲(木曽義仲)は、同月10日に越前国の支配を回復し、..