記事「第三部 藩政期の教育」 の 検索結果 11 件
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史料
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第一章 加賀藩と富山藩の藩校・教官一、加賀藩の明倫堂 ①明倫堂の創設 加賀藩の学校建設構想は、もともと好学家の五代藩主前田綱紀の頃よりあった。「先聖殿並学校造営事」が記され、京、江戸より木下順庵や松沢尺五らを招き、藩儒室井鳩巣を..
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参考文献『日本教育史資料』貳・九(文部省、明治二十五年) 『日本庶民教育史』上・中・下巻(乙竹岩造、昭和四年、目黒書店) 『富山県教育史』上巻(富山県教育史編纂委員会、昭和四十六年) 『自天保至安政 塾..
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寺子屋一覧地域 師匠名 創立 閉鎖年 寺子数 指導教科 備考 砺波市 旧砺波市域 出町 中町 高畠文伯 医者 三十余名 読 書 東町 佐藤家 組合頭 二代..
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第五章 明治維新後の教育行政文部省設置と学校設立 慶応三年十二月九日朝廷は将軍徳川慶喜の辞職を許し、王政復古が宣言された。翌年一月に鳥羽伏見で旧幕軍は敗れ、ここに約七百年続いた武家支配、徳川家康以来約二百六十年続いた幕..
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註釈●杉木郷学所の句読 杉木郷学所の句読には、島新村島田孝之、三谷村西蓮寺三溪、古上野村幾太郎、岡御所村永勝寺幸迹(?)、西部金屋村高畠脩蔵、桜町村儀一郎、頼成村順平、神島村柴田宗兵衛、筆生には、矢木..
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第四章 寺子屋の師匠 続き~婦負・新川七、富山市 旧山田村域 ●特色 農業地域であり、農閑期に少人数を教える形態であった。鍋谷には寺子屋が無かったが、四・五人がわが子に仮名や名頭消息往来及び珠算等を教えている。その際に子供の友達が..
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第四章 寺子屋の師匠~砺波・射水一、砺波市 旧砺波市域 ●特色 砺波郡の中心地で、寺院 神社 医者、その他多くは役付 有力者が従事した。重点を置いたのは習字であり、平仮名 片仮名 数字の他に教科書には十干十二支 村盡 往来物..
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第三章 越中国の寺子屋総論一、概要 民間の教育機関である寺子屋は、越中国でも藩政末期に数多く設立され、加賀藩も文政七年二月「御学政御修補に付、四民共御教導之儀は孝悌を先といたし候より外無之、凡人は先入主と成候而、幼少之折覚込..
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第二章 越中各地の郷学と私塾・算学と僧が学んだ学塾 続き三、算学塾 私塾や寺子屋とは違い、読み書きとは違う算学一科目を教える塾がある。幼少者には珠算を中心に、青少年には珠算を用いて和算を教え、一部は実践的に応用し改暦や測量等にも従事していた。特に薬都..
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第二章 越中各地の郷学と私塾・算学と僧が学んだ学塾一、郷学 藩末より明治初年にかけ、全国各地に学校組織を整えた公立または準公立の教育機関があった(ただし学制に基づくものは除く)。これを本書では郷学と総称することにする。越中国では各郡に次のような郷..
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