記事「第二部 蘭学の普及」 の 検索結果 7 件
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参考文献【参考文献】 本文中に記したため除いた文献もある。 和田尚軒『越中礪波誌全』(明治三十二年か、佐伯新聞舗) 飯沼和正、菅野富夫『高峰譲吉の生涯』(平成十二年、朝日新聞社) 永森規一『斉藤家の遺物..
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第六章 天保期の蘭(洋)学蘭学者は身分や藩等を越えて「蘭学社中」という仲間集団に帰属意識があった。そして「社中」を通じて「日本」という共同体を遠望していた。それゆえ、日本の国益に尽くしているのだという衿持を持っていたのである..
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第五章 絵画と写真越中国では藩政期に蘭画や写真術が入った形跡が無く、全て明治以降のことである。しかし加賀藩として観るならば、写真術は化学研究とも相俟って深化・普及している。 絵画 加賀藩の西洋画で残っている最初は、..
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第四章 洋書の翻訳と兵学の流入壮猶館 加賀藩では洋書の翻訳に力を注ぎ、その中心となったのは大橋作之進成之である。西村太冲に天文学、本多利明に航海術や海外の知識を学び、文政四年六月十四日に高岡町奉行に就任して、町人教育の振興を図るた..
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第三章 測量・天文観察和算の素養 越中国では藩政期に和算が普及し、郡部では実践的な測量学の発達をみた。また高岡町や富山町では薬業の振興に伴う商業の振興により実践的な珠算実務が錬磨される。和算の理論的発展は富山町でみられ..
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第二章 高岡町の蘭方研究と情報収集第一章では越中国で蘭方医学を学び、その知識を実践した人々について概観した。特に高岡町では蘭学を志す医者を多く輩出し、町内では蘭方が普通に用いられている。高岡町は町奉行が駐在しているとはいえ、実質的に..
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第一章 医学洋学はまず医学に取り入れられる。まずわが国に西洋医学が入ってきた過程を、主なものだけ年表で確認しておくことにしよう。 慶安二年(一六四九) カスパル・スハンベルヘル(Caspar Schamb..
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