記事「継体天皇」 の 検索結果 62 件
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黄金三角 8 河内は継体帝の庭(承前) 河内国を実効支配していた多治比(丹比)真人家は農地の開墾を進める一方で、農業用水を安定的に確保するための治水工事も行っていました。そして、国の事業として造られた「依羅(依網)池」と公の田..
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黄金三角 5 複雑な豪族たちの連合(承前) 多治比氏と大伴氏の関係を探る上で、別様な補助線を引くことも出来ます。多治比真人の祖先が「宣化天皇」であることは先に見てきた通りなのですが、実は、このような書き方はある意味で正しくありませ..
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金太郎と大王 1 マサカリお伽噺の世界なのだから、そうそう目くじらを立てて論うことはないのだけれど、気になりだすと夜も寝られない…、とまでは言いませんが、それにしても何故、金太郎は鉞(マサカリ)を担いで熊に跨っているのだ..
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隅田鏡と忍坂宮 7 中つ姫と卑弥呼(承前) 大正十一年に刊行された『大阪府全志』は、元々、河内の豪族であった息長氏に日本武尊(ヤマトタケル)の子・息長田別王が入り婿として入り、更には、その後、応神天皇の息子・若沼毛二俣王が養子とな..
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隅田鏡と忍坂宮 3 男弟巡る推理(承前) 次に「男弟」ですが、系譜を信じるなら仁賢天皇(449~498)には武烈天皇の他に男子は授かっていませんから、この「男弟」は、武烈の「姉妹の配偶者」の一人だと考える他はありません。それが継..
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鏡とピンク石 5 応神帝の藩屏(承前) 大王として特に顕著な実績を持たない応神帝が帝室で重きを為すに至った背景には、母親の大活躍という「神話」の存在もありますが、ほぼ一世紀近くの時間を置いて、再び大王位を巡って後継者争いが起こ..
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阿蘇ピンク石 7 息長の血脈と阿蘇(承前) そして、この推理を前提にするなら、敷桁彦命(シキタナヒコ、志貴多奈彦と同一人?)の子供だとする健緒組(タケオクミ)と、志貴多奈彦命の子供・遅男江命が同じ人物である可能性があり、日本書記の..
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阿蘇ピンク石 5 複雑な系譜改編(承前) 日本書紀は「景行五十八年春二月」に近江へ行幸した帝はそのまま三年住み続けたと記録し、これを滋賀高穴穂宮としたらしいのですが、兵主側の伝承の背景には『景行帝の頃、稲背入彦皇子が大いに武威を..
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阿蘇ピンク石 1 大王と茨田連考古学の分野での調査研究が進み、真の継体大王陵ではないかと見られている大阪高槻市の今城塚古墳から阿蘇溶結凝灰岩(通称・阿蘇ピンク石)の石棺材が見つかり、大和橿原では元の推古竹田陵ではないかとされ..
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2023年10月27日 歴史関連ニュース2023年10月27日 歴史関連ニュース 薩摩を探ったスパイの正体判明 手がかりとなった「先祖かも」の連絡 [熊本県]:朝日新聞デジタル 村田門左衛門 https://www.asahi.c..
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石上神宮 2 武神と剣(承前) また物部氏の「先代旧事本紀」天孫本紀では、宇摩志麻治命(ウマシマチ、饒速日命と御炊屋媛の子供、物部氏の遠祖)の大勲を特に褒め称えた神武天皇が「神剣=布都御魂」を彼に与え、その後、宮中に於..
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剣彦たち 6 鉄を求めて遷都(承前) 改めて云うまでも無く忍坂大中姫という女性は、応神天皇の子・稚渟毛二俣王の娘であり息長家の血筋を代表する人物であり、かつ星川皇子の反乱を「予言」した雄略帝の母親でもあります。また、安閑天皇..
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