記事「豊臣秀吉」 の 検索結果 1053 件
-
叡山焼き討ちの裏焼き討ちをする必要があったか? 疑問である。 ほんの一部を焼き、外交で屈服させることは出来たはずだ。 しかし、老若男女問わず殺し、焼いた。尤も、明智光秀、豊臣秀吉らはこっそり逃がしたらし..
-
姉川以降比叡山まで秀吉らは、姉川の戦いに勝った勢いでそのまま小谷城を攻略するよう進言した。戦術的には正しい。 しかし、信長は、そうしなかった。各武将を浅井、朝倉、六角、一揆勢、三好勢に配置し、少人数で上洛した。そ..
-
信長の変化信長とお市は越えてはならぬ一線を越えていた。そして、信長の子を身篭ったまま、浅井家に嫁いだ。信長は知らず、お市のみが知っていた。そして、運命の子が生まれた。 長政は、このことを知ってしまった。そ..
-
心労は昔も今も変わらず上杉景勝は、上杉家の安泰のために豊臣秀吉の約束通り上洛を果たす。 上京すると、石田三成の配慮で千利休の娘、お涼(木村佳乃)が世話役として、宿所に控えていた。 お涼は、秀吉への献上品である上..
-
朝倉討伐と浅井の裏切り1570年4月 信長は、朝倉義景の討伐に出かけた。名目は、将軍からの上洛要請に対し逆らったというもの。 緒戦は連戦連勝。金ヶ崎城を陥落させた。 明日は敦賀に突入というときに、信じられない知ら..
-
<豊臣秀吉>死因はかっけ? 医師の作家が学会で発表へ肺炎や梅毒など諸説入り乱れる豊臣秀吉(1598年没)の死因について、脳神経外科医で作家の若林利光さん(56)=兵庫県姫路市御立東1=が、当時の症状などを基に「かっけだった」とする新説をまとめた。13..
-
上司にしたい戦国武将なんといっても、明智光秀でしょう。 情理に明るく公平かつ温情を持って部下を育成した稀有の人物だ。 山崎の合戦の時、直属の兵は殆どが裏切っていない。「謀反人」であったにも拘らず。 人心を得..
-
真田昌幸の巻 その2前回 戦国最強!徳川軍団 上田城へ迫る。 と ブログに 書いたまま 4ヶ月も 徳川軍団を 遅延?足止めに! ワシも 中々の戦略家 そうそう 真田昌幸の..
-
信長の人を見る目人を見る目の非凡さ。 日本史上、信長は白眉である。 豊臣秀吉、明智光秀、徳川家康、柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、蒲生氏郷、前田利家、佐々成政、荒木村重、高山右近、池田恒興、森乱丸、などの多く..
-
秀吉の活躍信長は秀吉に何を観たのか? 素性は怪しい、風采は上がらない、戦闘力は無い。 こういう男を登用した信長の眼力は驚嘆に値する。 秀吉の発見は、信長という理想家そして、伝統・現実否定派でなけれ..
-
信長の器量ずっと直江兼続を兼継と表現してきた。 思い込みに反省。 見ているのに気づかない。 意識が向いてない証左だ。 直江兼続か・・・それほど大物とは思えない。 信長の下で、秀吉、光秀..
-
信長の戦争の変質この頃から、信長は外交を積極的に展開し始めた。 これまでは、内乱と対今川戦略を考えればよかった。ところが、方向が変わらざるを得なくなった。 信長不在の戦線のいたるところで、各武将に闘ってもら..