記事「関ケ原」 の 検索結果 82 件
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西首塚関ケ原の戦いで戦死した兵士たちを埋葬したと伝わる塚で別名が胴塚。 塚の正面にある御堂には千手観音と馬頭観音が安置されているそうです。 東首塚は東軍関連、西首塚は西軍関連の首塚とする説もあります。
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開戦地(関ケ原)慶長5年(1600年)9月15日に行われた関ケ原の戦いの開戦地。 合戦当日の朝、松平・井伊隊が先峰の福島隊の脇を通り抜け、西軍の 宇喜多隊の前へ進出、遅れじと福島隊が一斉射撃を開始したとのことです。
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宇喜多秀家陣所跡関ケ原合戦において、西軍副大将の宇喜多秀家は西軍最大の17000 の兵でこの地に陣を置き、東軍の福島勢との激突から戦いは始まりました。 宮本武蔵が奮戦したのもこの辺りといわれています。
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小西行長陣所跡石田三成の陣のあった笹尾山から約700m程南にある小西行長陣所跡。 北は北国街道、南は中山道を押さえる重要な場所で、開戦地はすぐ目の前。 開戦とともに北天満山から烽火をあげて味方に開戦の合図をしたそう..
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島津義弘陣地跡笹尾山の石田三成の陣跡から南に500m程の処の島津義弘陣跡。 戦国の雄・島津軍千人を率いた義弘はここ小池村に陣をかまえ、西軍の 敗色が濃くなると、ここから決死の敵中突破を行い薩摩まで帰還しました。
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徳川家康最後陣地跡慶長5年(1600年)9月15日に行われた関ケ原の戦いの際、徳川家康は 桃配山から三成本陣の笹尾山のすぐ下のこの地に本陣を移動させました。 合戦終了後にはこの場で、討ち取ってきた敵の首級が実検されたそ..
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関ケ原決戦地石田三成の陣があった笹尾山からすぐ近くにある関ケ原決戦地の碑。 西軍の敗色が濃くなるなか、石田三成の首を取ろうと攻める寄せる東軍と必死で応戦した西軍とが最大の激戦を繰り広げた場所と伝わっています。
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石田三成陣所跡慶長5年9月15日(1600年10月21日)の関ケ原の合戦において、 西軍の石田三成は関ケ原を見渡せる笹尾山の頂上に陣を置きました。 三成は当日の早朝に到着し、朝の5時頃には陣形を整えたとのことです。..
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島左近陣所跡石田三成の陣した笹尾山の下にある三成第一の家臣、島左近の陣所跡。 島左近は「治部少に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と 謡われたほどの猛将でしたが、銃弾を受けて討ち死にしたと伝わっていま..
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大谷吉継陣所跡大谷吉継は無謀とは知りながら、関ケ原の戦いでは西軍に属して参戦。 当初より小早川秀秋の裏切りを予想していたため、合戦が始まる1ヶ月も 前から松尾山の真正面のこの地に陣を作り始めたそうです。
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大谷吉継墓大谷吉継は戦国期から安土桃山時代にかけての武将で豊臣秀吉の家臣。 業病を患い失明の状態で関ヶ原の戦いに臨み、輿に乗って指揮して奮戦しましたが、 ついに敗戦すると家臣湯浅隆貞の介錯で切腹して果てたと伝わ..
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平塚為広の碑平塚為広は豊臣秀頼に仕えた武将で、関ヶ原合戦の直前には大谷吉継と共に佐和山城で石田三成に諫言しました。しかし説得は失敗し、西軍に与することとなり、関ヶ原本戦では大谷吉継軍に属して奮戦しましたが討死にを..