記事「阿部正弘」 の 検索結果 27 件
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島津斉彬島津斉彬 薩摩藩のお家騒動で40歳を過ぎてようやく藩主になった島津斉彬は藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。 阿部正弘とも..
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孝明天皇の祈祷安部の頼み 徳川家定への将軍宣下の儀のために江戸へ来た三条実万は阿部正弘に開国にたいしての朝廷の意見を求められる。政治に全く関与しない朝廷に意見があるはずはないのだが、阿部は朝廷の意見を参考にします..
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対ロシア全権大使親露派現る アメリカの強引な開国要求に比べ日本の法を尊重し我慢強いロシアに対して幕府内で親露派と呼ばれる存在が出てきた。 ロシアと同盟を結んでアメリカを追い出そうという意見までも出るほどである。 ..
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幕府、大船建造の禁止を解除徳川斉昭の提言 大船建造を許可してもらいたいというのは斉昭が水戸藩主だった頃から幕府に申請していたものである。 海防参与になってからは特に大船建造を上申することになる。 島津斉彬と西洋船 ..
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ロシア国書、江戸到着江戸にロシア艦隊の報告届く ペリーが浦賀を去って2月としない間に来たロシア艦隊。 江戸に第一報が入ったのは嘉永6年7月末のことであった。 阿部は老中、幕閣、幕臣らの意見を聞き対応に動くことになる..
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勝鱗太郎の意見書勝鱗太郎 江戸の旗本の家に生まれた勝は西洋兵学を学び、私塾を開くまでになった。 この頃に佐久間象山と出会い、妹が象山の妻になったことで義理の兄ということになる。 黒船と意見書 象山の影響で..
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中島三郎助の意見書意見書提出 阿部正弘が庶民・幕閣から広く意見を求めたのに応じて、中島三郎助は意見書を2通書いた。 台場建設や軍艦製造といった防衛策や開国論などが綴ってあった。 浦賀与力中島三郎助伝
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海防掛、江川太郎左衛門江川太郎左衛門 伊豆韮山の代官である江川太郎左衛門は日本における西洋軍学の第一人者であった。あの佐久間象山も江川太郎左衛門の弟子である。 海防掛に任命される 阿部は江川を勘定吟味役に任命し江..
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幕府の黒船政策オランダからの警告 嘉永5年6月、オランダ商館館長クルチウスよりペリー艦隊が日本に通商を求めに来るという情報が届けられる。 ペリーが出発する前であったが、情報は正確であった。だが、幕府首脳はこの情..
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阿部正弘の改革人事 阿部正弘は江川太郎左衛門、川路聖謨らを抜擢したほか、徳川斉昭を海防参与に任命したり、ジョン万次郎を土佐より呼び寄せたりした。 これから翌年にかけて阿部正弘は次々と有能な人材を登用していく。 ..
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海防参与、徳川斉昭水戸藩主、徳川斉昭 文政12年(1829年)、水戸藩の藩主となった斉昭は大幅な藩政改革を行った。藩校・弘道館を設立し優秀な人材(戸田忠太夫、藤田東湖、安島帯刀、武田耕雲斎)を育成し海防に力を入れた。..
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12代将軍死去徳川家慶 嘉永6年6月22日(1853年7月27日)永眠。 若くして老中となった安部正弘の後ろ盾ともなっていた将軍であり、幕末の異国船が往来する緊迫した時勢の中をなんとか乗り切った将軍だった。特に..