記事「魏志倭人伝」 の 検索結果 98 件
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邪馬台国・・・。このようにして彼らは四十四日を豊後から堺までの航海に費やし、・・・。 十六世紀の後半に日本に滞在したポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが著した「日本史」の一節である。 以下、..
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2017年2月10日 歴史関連ニュース2017年2月10日 歴史関連ニュース 漱石の手紙、80年ぶりに確認 大山崎山荘の命名案記す:朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/ASK2955C2K..
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朝鮮通信使を考える(4)対馬海峡は九州と朝鮮半島の間にあり、古代からこの海峡を渡って人も文物も去来した。海上保安庁の海図では、対馬の東側の九州との間を「対馬海峡東水道」、西側の朝鮮半島との間を「対馬海峡西水道」と表記してい..
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安田靫彦展(その6)安田靫彦展の当日券には、常設展の特集「春らんまんの日本画まつり」の入場券がついてくる。番外として、三階の10室に展示されている前田青邨の「石棺」、昭和37年(1962年)作を紹介する。 剣を手に..
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邪馬台国の遷都(34)魏志倭人伝の解釈に違いが出る従来説と岩元正昭説について、両者を時系列に並べて比較してみる。 ・ 景初二年(238年)六月:公孫氏殲滅後、難升米が魏の都・洛陽に上り明帝・曹叡に謁見。両説違いなし。 ..
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邪馬台国の遷都(33)卑弥呼=帯方郡太守の岩元正昭説であるが、字面だけみると不規則な点もある。魏志倭人伝で誰かを任命する部分には「今以汝爲親魏倭王」など、タイトル(王や太守などの役職)の前に「爲」の字が入っているが、岩元..
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邪馬台国の遷都(32)岩元正昭説を理解するには、帯方郡太守は誰なのかを解明しなければならない。魏志倭人伝に戻る。事件の九年前の景初二年(238年)十二月のことである。 「詔書報倭女王曰 制詔親魏倭王卑彌呼帶方太守劉夏〜..
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邪馬台国の遷都(31)魏志倭人伝の狗奴国についての記述に、理解しづらい箇所がある。とくに最後の下り、張政らを派遣したのは魏なのか帯方郡なのか、また、難升米は卑弥呼の代官であるが、彼は何処にいたのだろうか。 「真説魏志倭..
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邪馬台国の遷都(30)大陸・朝鮮半島の公孫氏の勢力伸長を受けて、邪馬台国は福岡県の遠賀川下流域から筑後川北岸の支流にある朝倉市付近に遷都したと書いてきた。だが、遷都は国際情勢ではなく、国内の狗奴国(くなこく)との戦闘に備..
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邪馬台国の遷都(29)公孫氏の支配が直接九州に及ばなくても、邪馬台国は戦に備えて遠賀川から遷都した。「遷都の三原則」を当てはめると、結論はこうなるのである。邪馬台国は220年から238年の18年間に遷都したと考えてよいの..
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邪馬台国の遷都(28)公孫氏が朝鮮半島南部の倭人を従属させたからには、その影響が邪馬台国に及ぶのは必定であろう。岩元正昭氏の言うように、公孫氏の一大率が伊都国に置かれたなら、遠賀川下流域にあった邪馬台国の女王はそれを認め..
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邪馬台国の遷都(27)魏志倭人伝の原文は「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」(空欄を挿入)で、「女王国以北は特に一大率を置き、諸国を検察、諸国はこれを畏れ憚る。常に伊都国で治め、..