記事「宮沢賢治」 の 検索結果 994 件
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《宮沢賢治の修羅 ノート8 「蜘蛛となめくぢと狸」》宮沢賢治の最初期の童話作品を紹介しておきたい。「蜘蛛となめくぢと狸」は賢治の処女作の童話で、大正七(1918)年八月に家族に読んできかせたものであるという。以下のテキストを、天沢退二郎は、このと..
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《宮沢賢治の修羅 ノート7 賢治仏教の修羅》童話『二十六夜』は、賢治仏教の骨子を示した作品に見える。ここで語られている教えを、わたしは賢治仏教と呼んでみたい誘惑に駆られる。末尾の二十六夜の月とともに来迎した「疾翔大力に主人公が救い取られる..
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《修羅成仏の作法》(宮沢賢治の修羅 ノート6)私が「修羅成仏の作法」と名づけたい宮沢賢治のテキストはこれだ。このテキストを、「ノート5」に上げた「病血熱すと雖も」のわが修羅の心身を仏国土たらしめるために賢治が見出した作法と考えたいのである。..
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《宮沢賢治の修羅 ノート5 修羅の成仏2》宮沢賢治のいわゆる『雨ニモマケズ手帳』の中の「病血熱すと雖も」(昭和六(1927)年)で始まる詩を紹介する。ここには「修羅の成仏」という問題の最も核心的な問題が、自らの三重の熱悩のた..
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《宮沢賢治の修羅 ノート4 修羅の成仏》三十三間堂のさくら 大正9(1920)年6~7月に書かれたとみなされる書簡165の中で宮沢賢治は自分のある経験を称して「人間の世界の修羅の成仏」と呼んでいる。この言葉はしかし何を意..
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《賢治の阿修羅像 興福寺/三十三間堂》(宮沢賢治の修羅 ノート3)大正5(1916)年3月25日、修学旅行で奈良に来ていた盛岡高等農林学校農学科二年生一行は、この日午前10時まで、奈良の名所見物のための自由行動を許されていたことが森川修一郎の報告から分かる(『新..
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《宮沢賢治の修羅 ノート2 賢治の基本姿勢》わたしは保阪嘉内あての大正十四(1925)年6月25日の書簡に、宮沢賢治の思想の基本姿勢が示されていると考えている。以下はその手紙の全文である(下線は引用者)。 >お手紙ありが..
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宮沢賢治学会・京都セミナー2014《宮沢賢治-修羅の誕生》の案内宮沢賢治の修羅、それは京都・関西の力(学問・文化・哲学)と東北・岩手の力(学問・言葉・生活)が交叉する場所。ここにかつて修羅が生れ、今ここにまことの火花が生まれる。 主催 宮..
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《宮沢賢治の修羅 ノート1 賢治の修羅の複雑性》『春と修羅』の中に出て来る「修羅」は以下であろう。 「春と修羅」より a. 心象のはひいろはがねから あけびのつるはくもにからまり のばらのやぶや腐蝕の湿地 いちめんのいち..
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《宮澤家では関西弁を使っていたのではないだろうか?》宮澤家では関西弁を使っていたのではないだろうか? それも多分、京・近江のあたりの言葉を。---そう、ここで宮澤家と言っているのは、宮沢賢治の家では、ということだ。それが自然に出てしまうことがある..
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平澤信一の「銀河鉄道の方へ」平澤信一の論文「銀河鉄道の方へ」(『宮沢賢治《遷移》の詩学』2008所収)には大変感心した。それは宮沢賢治の思考において、目に見えないものとしての「あまの川の水」についての想念が、..
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《風の誘い…》「風立ちぬ」、このフレーズが今年再びひとびとの耳に立ち返ってきた。宮崎駿の作品の名として。その前はきっと堀辰雄の作品だった。源を探ればどちらもポール・ヴァレリーの詩「海辺の墓..