記事「東海道」 の 検索結果 1226 件
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旅籠屋跡(程ヶ谷宿)東海道の4番目の宿場町である程ヶ谷宿に残る、旅籠屋(本金子屋)跡。 寛政12年(1800年)の頃の程ヶ谷宿の旅籠屋の数は、37件でしたが、 天保13年(1842年)には、69軒になっていたそうです..
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脇本陣跡(程ヶ谷宿)東海道の程ヶ谷宿には、本陣の他に脇本陣が3軒置かれていたそうです。 そのうちの一軒が水屋で、天保年間の規模は、建坪128坪(約423㎡)、 間口8間(約14.5m)、奥行16間(約29m)、室数1..
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脇本陣(藤屋)跡東海道の4番目の宿場である保土ヶ谷宿には本陣が1軒、脇本陣が3軒、 それに1軒の茶屋本陣があったそうですが、藤屋は脇本陣の中の1件。 脇本陣は、本陣に差し支えが生じたときなどに利用されていたそうで..
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程ヶ谷宿本陣跡程ヶ谷宿は東海道53次の4番目の、東海道では武蔵国最西端の宿場町。 保土ヶ谷本陣・苅部氏の祖先は、後北条氏の家臣の苅部豊前守康則で、 歴代当主が、苅部清兵衛を名乗ってきたとのことです。
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金沢横丁横浜市保土ケ谷区、JR保土ヶ谷駅の近くが、旧東海道と旧金沢道の分岐点 だった所で、金沢横丁と呼ばれていました。当時名所として知られていた杉田 の梅林や金沢八景に向かう人々は、ここから金沢へと向かっ..
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高札場跡(程ヶ谷宿)程ヶ谷宿は、東海道五十三次の、江戸から4番目の宿場町。高札場は、 幕府や領主からのお触れ等を書き記した木札を掲示した施設で、街道 に面した人通りの多い場所に設置されることが多かったとのことです。
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問屋場跡(程ヶ谷宿)問屋場とは、江戸と全国各地の間で送付される幕府の書状の継立や、大名 行列時などに周辺の村々から動員された人足・馬の差配を取り仕切る場所。 街道に面した宿場の中心に設置されている場合が多かったようで..
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助郷会所跡(程ヶ谷宿)助郷とは、江戸時代に、幕府が諸街道の宿場の保護、および、人足や馬 の補充を目的として、宿場周辺の村落に課した夫役のこと。初めは臨時の 人馬徴発でしたが、後に助郷制度として恒常化したそうです。
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帷子橋跡横浜の天王町駅前公園にある、旧東海道に架かっていた帷子橋の跡。 帷子橋は程ヶ谷宿の中にあり、「江戸より八里」の碑が建てられていて、 安藤広重の「東海道五十三次」の保土ヶ谷宿にも描かれている橋です。..
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江戸方見付跡(程ヶ谷宿)江戸方見附は、各宿場の江戸側の出入口に設置されていたもので、東海道分間延絵図によれば、芝生の追分から国道16号を越え天王町にいたる途中に保土ヶ谷宿の江戸方見附があったとのことです。
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芝生追分横浜市保土ケ谷区宮田町の松原商店街から北に少しのところ、旧東海道 沿いにあるのが芝生追分。追分は一般に道の分岐点を意味しますが、この 芝生の追分は東海道と八王子道(絹の道)が分かれる場所です。
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桜屋跡広重の「東海道53次」の神奈川・台之景にも描かれているのが、「さくらや」。 文久3年に、田中家の初代がその「さくらや」を買い取り「田中家」がスタート。 坂本龍馬の妻おりょうも、住み込みの仲居として..