記事「東海道」 の 検索結果 1226 件
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神奈川町本陣跡東海道53次の3番目の宿場である神奈川宿の本陣跡。本陣は滝の川を挟んで二つあり、滝ノ川の東にあったのが、神奈川町本陣跡。滝の川の東側の川縁に高札場があり、その向こう側に本陣があったそうです。 ..
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生麦事件碑文久2年(1862年)8月21日、騎乗の英国人4人が島津久光の行列を乱し、行列の警護にあたっていた薩摩藩士が抜刀してこの4人に斬りつけました。英国人リチャードソンが落馬してとどめを刺された所近くに碑が..
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生麦事件現場文久2年(1862年)8月21日に起こった生麦事件の現場。島津藩主の父島津久光の400人の行列と、騎乗の英国人4人がここで遭遇。行列を乱したとして薩摩藩士が英国人に斬りかかり、1人を殺害しました。
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信楽茶屋信楽茶屋は東海道の立場として栄えた鶴見村の中で最も大きな茶店でした。「江戸名所図絵」にも描かれ、竹皮に包んだ梅干が好評だったとのことです。立場とは、宿と宿との間の休憩場で、茶屋や売店が設けられていたそ..
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鶴見橋関門旧跡文久2年(1862年)の生麦事件後、幕府は攘夷派浪士の取り締まりのために、川崎宿から保土ケ谷宿の間に20か所の見張り番所を設置し、鶴見橋(現鶴見川橋)には、5番目の番所が設けられました。
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市場一里塚お江戸日本橋から5番目、つまり5里のところにあった一里塚。一里塚には榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるような配慮があり、また、その樹木の根は塚の崩壊を防ぐ役割も持っていたそうです。
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川崎宿京入口跡東海道53次の2番目の宿場である川崎宿の京側の入り口。 宿場の京入口には、切石を積んだ土居があり、ここに幕末、外国人遊歩区域 となった川崎宿の外国人警護のための第一関門が設けられたそうです。
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問屋場跡(川崎宿)京急川崎駅からすぐ近くの、砂子一丁目交差点北東角に案内板があります。 宿場業務の監督をするのが問屋場で、川崎宿では、約30人の問屋役人が、 昼夜交代で勤務し、その職務は繁忙をきわめたそうです。
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旧東海道碑横浜市立桜台小学校の北西角にある「旧東海道」の碑。一般的には旧東海 道はこの地点より約600m南の現在の国道1号線のこと。それ以前の東海 道がここを通っていたのでしょうか、よく分かりません。
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田中本陣跡(川崎宿)東海道53次の2番目の宿場街であった川崎宿の本陣のあった場所。 本陣家の主人である田中休愚は、本陣、名主、問屋の三役を兼務し、 六郷の渡船権を譲り受けて、宿場の財政を立て直したと伝わっています。
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里程標(梅屋敷)旧東海道沿いの、日本橋から約12.6km地点にあった里程標。 東京都大田区の聖蹟鎌田梅屋敷公園に復元されたもので、 「距日本橋三里八丁 蒲田村 山本屋」と彫られています。
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美原通り(旧東海道)東京都大田区大森本町二丁目1番付近から大森東1丁目4番付近にかけ ての通り。第一京浜国道建設工事の際に、旧東海道が拡張されましたが、 商店街の美原通を避けたため、今でも旧東海道の面影を残しています..