記事「河井継之助」 の 検索結果 73 件
-
北越戊辰戦争(16)前記、今泉の著書には、河井継之助に幼児、可愛がられた良運さんの息子小山正太郎の文章も載せている。 「岩村なる者、何たる白痴(たわけ)ぞ」 と、激越な文章から始まる。要約すると、 「河井氏の人..
-
北越戊辰戦争(15)越後長岡の旧会津藩士今泉鐸次郎はその著『河井継之助伝』の中で、晩年の「男爵岩村高俊(後年変名)氏の談話」というものを採録している。 「河井の経歴や人物については、後年になってはじめて知った。当時..
-
北越戊辰戦争(14)岩村は当時、24歳、若僧であった。が、最上位の軍監である。この時の河井継之助の岩村に対する第一印象は、「いやな奴だな」であった。 継之助が深く頭を垂れ姓名を名乗って挨拶したのに対して、岩村はとっ..
-
北越戊辰戦争(13)午後1時になって、宿舎で待機していた河井継之助に呼び出しがあった。談判場は、小千谷陣屋ではなく、寺町の慈眼寺の奥の一室であった。 そこには、西軍の軍監、土佐の岩村精一郎と薩摩の淵辺直右衛門、長州..
-
北越戊辰戦争(12)軍事総督河井継之助は、長岡藩本陣に若い隊長を集め、西軍の攻撃があった場合のみ戦う専守防衛を命令した。これにより、各隊は領内を巡邏警備した。 会津藩家老佐川官兵衛は、この継之助の態度をいぶかり、し..
-
北越戊辰戦争(11)その間にも西軍は東上していた。戦争の足音は、次第に長岡に近づいてきたのである。河井継之助の指導で4月14日、長岡城下、中島で藩兵の大調練が行われた。 フランス兵制による整然とした縦列行進や指揮者..
-
北越戊辰戦争(10)藩中の不穏な動静を察知した老公牧野忠恭(ただゆき)は、4月23日、恭順派の巨魁本富寛居(ほんぷ・かんい)、大瀬紀利(きみとし)を別邸に招いて説諭した。 恭順派は「これでは戦争を呼び込むものだ」と..
-
北越戊辰戦争(9)こうした段階にあっても、長岡藩内にあって恭順を主張する者があった。特に、藩校・崇徳館の教授らを中心に勤王論が盛んであった。元筆頭家老の稲垣平助も勤王支持者として同調していた。 今まで長岡藩政府は..
-
北越戊辰戦争(8)当時、新潟港には、鳥羽・伏見の戦で敗れ、江戸を脱走した衝鉾隊の隊士ら700名余がいて、付近の町人に乱暴狼藉を働いたりしていた。 そうした新潟港の治安を巡り、北越諸藩が現地に集まって取り締まること..
-
北越戊辰戦争(7)河井継之助一行は、3月23日、新潟港に着き、翌24日には長岡に帰着した。 この当時、長岡藩論は、政庁幹部が佐幕を唱えるのに対し、門閥家老の稲垣平助らは勤王恭順を主張し、藩論は真っ二つに分かれてい..
-
北越戊辰戦争(6)長岡藩は、大坂城の玉津橋を警備していたが、大きなうねりの歯車は既に回っていた。 翌慶応4年(1868)1月3日、突如、鳥羽・伏見で戦端が開かれた。1万5000名も擁しながら、寄り合い部隊であった..
-
北越戊辰戦争(5)12月22日、藩主・忠訓は河井継之助に差料(さしりょう)の短刀を与えた。継之助は副使三間市之進、付添渋木成三郎を従えて、御所鶴乃間に於いて長谷三位、五辻小納言に謁し、建言書の趣意を陳述した。この時、..