記事「お笑い」 の 検索結果 21066 件
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【西条昇の演芸コレクション】昭和13年頃の名古屋劇場でのエンタツ・アチャコの喜劇の実演のパンフ昭和13年頃の吉本興業直営の名古屋劇場のパンフ。 エンタツ・アチャコのお芝居「彌次喜多 角力道中記」五景。 横山エンタツ・花菱アチャコと言えば、昭和5年に結成され、二人が確立した「しゃべくり漫才」..
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【西条昇の演芸コレクション】昭和15年5月の吉本の名古屋劇場のパンフ昭和15年5月の吉本興業直営の名古屋劇場のパンフ。 戦前の吉本の顔の一人であった柳家三亀松師匠の特別出演である。 僕が物心ついた頃には、もう亡くなられていたが、小学生5、6年生の頃にNHKラジオで..
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【西条昇の演芸コレクション】台頭期の柳家金語楼が主任の麻布・十番倶楽部での落語界革新興行のプログラム昭和初期の麻布・十番倶楽部での落語界革新興行のプログラム。 仲入前に金語楼レビュー、主任が柳家金語楼、大切余興が柳家金語楼その他大勢にて熱演の「黒ん坊のジャズバンド」と、金さま獅子奮迅の大サービスぶ..
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【西条昇の演芸コレクション】昭和15年4月の名劇での実演「エンタツ・アチャコの國定忠治」のパンフレット昭和15年4月の吉本直営の名劇(名古屋劇場)での実演「エンタツ・アチャコの國定忠治」のパンフレット。 〈しゃべくり漫才の元祖〉である横山エンタツ・花菱アチャコは、「早慶戦」のヒットで吉本を代表する全..
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【西条昇の演芸コレクション】冗談音楽「スパイク原とザ・コントメン」の宣材プロフィール興行請負業者紹介誌「ショー・イン・ジャパン」昭和50(1975)年11・12月号に掲載された冗談音楽「スパイク原とザ・コントメン」の宣材プロフィール。 スパイク原という名前からして冗談音楽の元祖「ス..
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マンガ太郎さんと長田あつしさんのご冥福をお祈り致します漫画ボードビルのマンガ太郎さんと、殿様キングスのリーダーでオヨネーズとして「麦畑」のヒットもある長田あつしさんが、相次いで亡くなられたとのこと。 マンガ太郎さんは「花王ファミリースペシャル・おもしろ..
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【西条昇の軽演劇コレクション】京都花月劇場のパンフレット今年で百周年を迎えた吉本興業が戦前から主要都市を中心に多くの劇場や寄席を持ち、現在とも共通する全国的な展開をしていたのは周知の通りである。 手元に昭和10年代の京都花月劇場のパンフレットがあるが、同..
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【西条昇の軽演劇コレクション】新宿セントラル劇場(隆盛期〜後半期)のパンフレット昭和24年に開場した新宿セントラル劇場は、次第に当初の帝都座ショウ的な色合いを薄め、独自のバーレスク色を打ち出していった。 と同時に、パンフレットのほうも、帝都座ショウに近い印象のものから、ストリッ..
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【西条昇の軽演劇コレクション】新宿セントラル劇場1〜3回公演のパンフレット額縁ショウ(名画アルバム)を売り物に昭和22年前半に話題を読んだ新宿・帝都座ショウは翌23年9月公演を最後に解散に至った。 観客が集まらなかったから解散した訳ではない。興行的には問題はなかった。 ..
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【西条昇の軽演劇コレクション】伊東四朗が伊藤証時代に出演した、浅草松竹演芸場と新宿松竹文化演芸場での石井均一座のパンフレット今、伊東四朗が日本の喜劇界にとっての貴重な存在であることは言うまでもないだろう。 その伊東四朗が喜劇の世界に入るキッカケとなったのが新宿フランス座であった。 当時、早稲田大学の生協で働いていた本名..
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【西条昇の軽演劇コレクション】浅草・常盤座での浅草松竹ミュージカルスのパンフレット昭和31年2月の東宝ミュージカルスの立ち上げに刺激を受け、東宝のライバルである松竹が同年11月に浅草・常盤座で立ち上げたのが浅草松竹ミュージカルスであった。 東宝版が菊田一夫の原点である浅草のアチャ..
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【西条昇の軽演劇コレクション】日比谷・東京宝塚劇場での東宝ミュージカルスのパンフレット秦豊吉による帝劇ミュージカルスは、昭和29年3月の第8回公演を最後に終了となった。 直後に秦は膝関節を痛めて入院。帝劇のシネラマ劇場への転向が決定した。 昭和30年9月に菊田一夫が東宝の演劇担当重..