記事「伝統文化」 の 検索結果 320 件
-
H20.1Q.27 ⇒石川五右衛門の「絶景かな絶景かな」で知られる南禅寺の三門を舞台とした歌舞伎の演目は何?▽ 大坂の歌舞伎作者 並木五瓶(ゴヘイ)の長編作で、 18世紀後半に道頓堀に於いて初演された。 本外題は『金門五三桐(キンンモンゴサンノキリ)』だが、 最近、多くは『桜門五三桐(サンモン..
-
H20.1Q.26 ⇒江戸時代、家元が将軍家に仕える為に江戸に移った後、京都で観世流の素謡(スウタイ)の師範にあたった家を総称し何というか?▽ 能楽が幕府の式楽(シキガク)となり、 太夫(家元)が皆、将軍家に仕える為、 江戸に移ったが、京に残り観世流の素謡(スウタイ)の師範にあたった、岩井・浅野・薗(ソノ)・林・井上を総称し「京観..
-
H20.1Q.25 ⇒唐から伝来した散楽(サンガク)や日本古来の諸芸が交じり合い、平安時代に盛んになった芸能で、後に能・狂言に発展したのは何?▽ 日本の伝統芸能で、 ユネスコの無形文化遺産に登録されている 「能楽」 「人形浄瑠璃文楽」 「歌舞伎」 の内、最も歴史の古いのは「能楽」で、 世阿弥が『風姿花伝』を著してからでも600..
-
H20.1Q.03 ⇒都大路の春景を詠んだ歌「見わたせば柳桜をこきまぜて宮こぞ春の錦なりける」(素性法師)は、わが国最初の勅撰和歌集・(?)に収められている。▽ わが国最初の勅撰和歌集は『古今和歌集』だが、醍醐天皇の命により編纂され20巻あり、『万葉集』以来の名歌が集められ、延喜5(905)年に成立し醍醐天皇に奏上された。 撰者は、 紀貫之 紀友則..
-
H19.1Q.27 ⇒観世流家元と姻戚関係にあり、服部宗巴(ソウハ)・宗碩(ソウセキ)の後を引き継ぎ今日まで京都の観世流を取り仕切って来たのは何家?▽ 能シテ方五流派の内・最大勢力の「観世流」は、 26世宗家を中心に 銕之丞(テツノジョウ)家 善之(ヨシユキ)家 宗家と姻戚関係にある「片山家」 など東西各家の人々により流儀を支え、磐..
-
H19.1Q.26 ⇒世阿弥が著した『風姿花伝』の冒頭で、聖徳太子の命で申楽(サルガク)を初めて上演した祖として記載されているのは誰?▽ 世界的にも著名な世阿弥の能楽書『風姿花伝』の序に「近頃、万人のもてあそぶところは、推古天皇の御宇(ギョ ウ)に、(聖徳太子)、秦河勝(ハタノカワカツ)に仰せて、かつては天下安全のため、かつは諸..
-
H19.1Q.25 ⇒京都に煎茶を普及させ、売茶翁(バイサオウ)とも呼ばれた黄檗僧は誰?▽ 京で煎茶売りを商いとした為、 「売茶翁(バイサオウ)」と呼ばれた黄檗僧は、 「高遊外(コウユウガイ)」で、57歳で入洛し享保16(1731)年・東山に茶亭「通仙亭(ツウセンテイ)」を設け..
-
H19.1Q.24 ⇒自らは茶道での仕官を拒み在野に終始したが、3人の息子には仕官を勧める等して三千家の基礎を築いたのは誰?▽ 在野の侘茶(ワビチャ)人として三千家の基礎を築いたのは、「千宗旦」で、父は利休の後妻の連れ子・少庵である。 大徳寺で喝食(カッシキ)をしていたが、 祖父・利休の切腹事件に遭遇し、 千家再..
-
H19.1Q.17 ⇒近衛信尹(ノブタダ)・松花堂昭乗(ショウカドウショウジョウ)と共に寛永の三筆として有名な(?)は、多才な文化人として知られ、晩年、洛北・鷹峯(タカガミネ)に土地を与えられ工芸制作に励んだ。▽ 近衛信尹・松花堂昭乗と並ぶ「寛永の三筆」とは、「本阿弥光悦」で、 書画・陶芸・蒔絵(マキエ)などにも優れ、「舟橋蒔絵硯箱」 俵屋宗達・角倉素庵(ソアン)との共作である印本「嵯峨本(光悦本)」..
-
「残さず頂戴しろ」山伏たちが責め立てる強飯式。。。YomiutiOnline/どなたが意義をご存じの方はお教え下さいこの儀式が意図していることを御存知の方は教えてください。主食を大切にする儀式であれば理解できるのですが、ムリに食わせる、ということの意味がなかなかつかめません。 http://www.yom..
-
H19.1Q.03 ⇒『古今和歌集』の撰者の一人・(?)は、日本で最初の仮名文の日記『土佐日記』の作者としても知られる。▽ 平安前期の貴族「紀貫之」は、 国司を歴任した政治家で、文人・歌人としても著名であり、延喜5(905)年完成の『古今和歌集』の編纂では主導的な役割を果たし、執筆した序文「仮名序」は、仮名書きで和..
-
H18.1Q.55 ⇒後水尾上皇とその時代の文化について、150字以上200字以内の文章を記述せよ(譲位の契機となった事件・上皇の中宮で社寺や伝統文化の復興に尽力した人物・その時代に活躍した文化人の内「風神雷神図(国宝)」を描いた画家・立花会の指導的役割を果たした華道家・上皇が造営した山荘は、必ず..