記事「小田原」 の 検索結果 2290 件
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二宮尊徳遺髪塚二宮尊徳の母よしの実家は、旧曽我別所村の川久保太兵衛で、尊徳の 指導により再興された川久保家は、民次郎が跡を継ぐことになったそうです。 民次郎は尊徳の死去にあたり、遺髪を得て曽我に持ち帰ったとのこ..
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曽我別所屋敷跡曽我兄弟が工藤祐経を討つために、富士の裾野に向かおうとする時、母の 満江御膳のもとを訪れ、今生の別れに母の満江御膳から小袖を乞い受けた と伝わる曽我氏の下屋敷跡。現在、曽我別所公民館のあるところで..
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別所薬師堂小田原市曽我別所 にある薬師堂で、行基の作と伝わる薬師如来が祀られ ています。伝承によれば、この薬師如来像は、戦国時代に戦火により、その 背中が焦げてしまったことから、別名「焼け薬師」と呼ばれてい..
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満江御前墓満江御前は、日本三大仇討ちの一つとして名高い曽我兄弟の母。建久6年 に夫の祐信と共に出家し、曽我別所に大御堂を建て、兄弟の霊を供養してき ましたが、正治元年、奇しくも兄弟の七回忌の5月28日に没し..
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法蓮寺小田原市曽我別所にある、慶長19年(1614年)創建の日蓮宗のお寺。. 曽我祐信夫妻は建久6年(1195年)に出家し、曽我別所に大御堂を建てて 曽我兄弟の菩提を弔い、その大御堂が後に法蓮寺に改まっ..
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下久保の道祖神道祖神は、村内と村外の境界や道の辻、三叉路などに主に石碑や石像の 形態で祀られる神様のこと。小田原市曽我別所、法蓮寺の近くの県道72 号線沿いに、下久保の道祖神ほか石造物群が並んでいます。
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小田原さかなセンター小田原市早川の小田原漁港、小田原魚市場の直ぐ近くにある海鮮市場。 場内には9種類の飲食店、土産物店、バーベキューコーナーがあり、新鮮 な海の幸を味わい、買い物を楽しむ人たちで賑わっています。
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徳川家康陣地跡天正18年(1590年)の小田原戦役の際、徳川家康は豊臣方の先鋒として、 約3万人の兵を率いて出陣し、小田原城の東方のこの地に本陣を置きました。 北条氏が降伏するまでの、およそ110日間滞留してい..
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新田義貞首塚(小田原)新田義貞は北陸を転戦中、延元3年(1338年)、越前国藤島で討死。 義貞 の家臣宇都宮泰藤は、晒された義貞の首を奪い返して上野国に向かう途中 で病となり、止む無く義貞の首をこの地に埋葬したとのこと..
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北条早雲像北条早雲は戦国時代初期の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖。一介 の素浪人伊勢新九郎が駿河へ下って身を興し、後に関東を切り取り一代の 梟雄北条早雲となったと伝わっていますが、その実像には異論もあ..
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小田原北條五代祭り戦国時代に小田原城を拠点とし5代にわたってその栄華を極めた戦国大名 後北条氏を称え偲ぶ祭り。主に5代城主を模した武者行列、地元の高校、 陸上自衛隊音楽隊のパレード隊など、総勢約2000人をあげて行..
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石橋山治承4年(1180年)、伊豆の韮山で挙兵した源頼朝軍は石橋山で追討 軍の大庭景親、伊東祐親軍に包囲され合戦となりました。多勢に無勢の 頼朝軍は壊滅し、頼朝は真鶴岬から安房へと逃亡しました。