記事「日本史」 の 検索結果 2717 件
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山本七平『日本はなぜ敗れるのか―敗因21カ条』の書評3:“現実の数字”を無視する員数主義小松真一氏の『日本の敗因二十一カ条』の冒頭に掲げられた要因は、『精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。然るに作戦その他で兵に要求される事は、総て精兵でなければできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米..
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奥州・蝦夷の歴史は“米の文化・中央の権力”とどう向き合ったか3:松前慶広と豊臣・徳川政権への同化奥州藤原氏ははじめ本拠地を江刺郡豊田館(奥州市)に構え、その後に磐井郡平泉に拠点を移して1108年から中尊寺金色堂の造営を開始しているが、奥州藤原氏は最後に確立された『蝦夷・俘囚の系譜』を引く中央から..
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奥州・蝦夷の歴史は“米の文化・中央の権力”とどう向き合ったか2:安倍氏清原氏と武家の棟梁源氏平安時代中期には、陸奥に土着して支配領域を拡大していた軍事貴族の安倍氏がいて半独立的な勢力を築いていたが、朝廷への貢納を怠った廉で陸奥守・藤原登任(ふじわらのなりとう)が攻撃を仕掛けると逆にこれを打ち..
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奥州・蝦夷の歴史は“米の文化・中央の権力”とどう向き合ったか1:稲作伝来が生んだ日本文化の基層前回の記事の続きになるが、平安時代前期の9世紀には、平安京の朝廷は蝦夷に対する直接の軍事活動を取りやめることになり、朝廷の蝦夷に対する支配領域の拡大は現在の岩手県・秋田県のそれぞれ中部付近を北限として..
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蝦夷征伐の東北史から見る“日本人・大和文化”とは何か?3:坂上田村麻呂の東北経略と平安京の怨霊信仰大和と蝦夷の激戦地帯となったのは現岩手県の胆沢(いざわ)の周辺であり、780年(宝亀11年)に俘囚の伊治呰麻呂(いじのあざまろ)が反乱を起こして、陸奥按察使(むつあぜち)の紀広純(きのひろずみ)を殺害..
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蝦夷征伐の東北史から見る“日本人・大和文化”とは何か?2:まつろわぬ者の蝦夷・アイヌと帰属意識統一的な近代国家の要件を備えた日本が明治期に成立するまでは、日本及び日本人の範囲は『天皇家・大和朝廷(平安京)にまつろう者(従う者)の集団勢力』によって規定されており、蝦夷・毛人(えみし)とは端的には..
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蝦夷征伐の東北史から見る“日本人・大和文化”とは何か?1:中国の華夷秩序の影響と大和朝廷日本人は戦時中には“大和人(大和民族)”と自称する事が多く、男性社会を支える良妻賢母を育成しようとする女性教育では三従の“大和撫子”が理想とされた。日本が当時最先端の造船軍事技術を集積させた切り札の戦..
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内田樹『日本辺境論』の書評3:“辺境性”を活用してきた日本と先行者(世界標準)との距離戦前と戦後の日本の軍事外交や国際情勢の認識に共通する要素として、内田氏は『被害者意識(外国が攻撃してくるからこちらも反撃せざるを得ない)』を上げていますが、『追い詰められる前の段階』で自ら先手を打って..
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自力救済の中世社会における“無縁”と“暴力”:近代国家の中央集権的統治とヤクザの民間暴力前回の記事の続きになるが、武士団と中世寺社勢力は『暴力(軍事)による威圧・実力行使』によって、自力救済の社会に最も良く適応した集団である。『国家(法律・制度)』と『社会(現実の生活)』とのギャップが大..
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“国家(法権力)”と“社会(民衆社会)”のズレが生む無縁の世界:朝廷・幕府・寺社の多重権力白河上皇の院政期(1086年~)を『中世の始まり』として、織田信長の京都入京(1568年)による武家政権の全国的政権化を『中世の終わり』とするのが通説であるが、伊藤正敏氏は著書『寺社勢力の中世――無縁..
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中世寺社勢力と非農民の“行人・神人・聖”が形成した“無縁の世界”:有縁の世界からの避難所ゲマインシャフト(伝統共同体)としての『家族とのつながり・血縁地縁』が薄れていって、最期には誰にも看取られず孤独死してしまうという『無縁社会の問題』が以前マスメディアなどで取り上げられていた。ここでい..
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士農工商の身分制度と商業・貨幣蔑視の価値観:中世日本における自由な異界としての“無縁・悪所”西欧社会と日本社会の歴史を均質的に語ることはできないが、古代社会~封建社会の支配階級としての貴族・武士は『精神的・観念的な価値』に自らの存在根拠を求めている傾向が強く、『物理的な価値』を生み出す農耕・..