記事「歴史」 の 検索結果 41425 件
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古典文学探訪32 「奥の細道」写真はかつて金色堂(光堂)をおおっていた「おおい堂」すなわち「鞘堂」を撮ったものです。金色堂の周囲を取り囲み、金色堂が朽ちるのを防ぎました。 鞘堂におおわれた金色堂を江戸時代の松尾芭蕉が見てい..
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古典文学探訪31 「義経記」写真は平泉の中尊寺の金色堂ですが、中は撮影禁止なので、やむなく外から撮ったものです。青葉城跡で昼食を取った後、バスで平泉へ移動しました。 平泉は奥州藤原三代にわたって栄えたところであり、金色..
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石田三成の実像34 「毛利輝元」1高野山にある毛利家の墓所です。 毛利輝元は関ヶ原の戦いの際に、西軍の総大将になった武将ですが、石田三成たちの要請を受けて7月17日大坂城の西の丸に入り、秀頼を守る役目を果たしましたが、大垣城にい..
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フランス文学探訪13 ユルスナール「東方綺譚」の「マルコの微笑」2セルビア付近の地図を参考のため載せました。 つかまったマルコは死んだふりをしますが、体は硬直化し、心臓の鼓動も聞き取れないほどの徹底ぶりでした。それはまるで「ロメオとジュリエット」の..
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フランス文学探訪12 ユルスナール「東方綺譚」の「マルコの微笑」114世紀にセルビアで活躍した英雄マルコが主人公の話ですが、私は寡聞にしてそういう人の存在を知りませんでした。彼はセルビアの王子であり、クラリェヴィッチ・マルコという名前でした。ドウシャン大帝の死後、..
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石田三成の実像33 三成の兄、石田正澄2写真は高野山の大塔ですが、真言宗の根本道場として建立されたので根本大塔と言います。今の大塔は1937年に再建されたものです。 後で述べますように、関ヶ原の戦いの後、正澄の息子が高野山の木食上人を..
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石田三成の実像32 三成の兄、石田正澄1写真は高野山の石田三成の墓のアップですが、横に立ってるのが私です。 石田正澄は三成の兄でありながら、弟をよく補佐しました。正澄は本当は次男ですが、長男が幼くしてなくなっています。三成に「三」と..
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石田三成の実像28 高野山の石田三成の墓、経堂、秀次切腹の間一泊二日で高野山に行ってきました。遍照光院という宿坊に泊まったのですが、初日は宿に荷物を置くと、早速奥の院まで小一時間歩きました。参道には武将や藩主たちの墓がずらりと並んでいますが、その中に石田三成..
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石田三成の実像27 三成の長女の夫「山田隼人正」石田三成と正室の間には三男三女がいたということを白川亨氏は明らかにしておられます。側室の子もいましたが、それはまた稿を改めて述べます。 長男重家は前にも触れたように出家して宗亨となり、103歳の..
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京都探訪4 「随心院」と小野小町小野小町ゆかりの寺であり、地下鉄東西線の小野駅から歩いて数分の距離にあります。小野の地は 小野一族の栄えた土地で、小野小町は小野篁の孫に当たり、日本を代表する絶世の美人と言われていますが、その人生は..
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京都探訪3 「誓願寺」誓願寺は京都の繁華街新京極の一角にあるお寺で、昔からその存在は知っていましたが、中に入ったのは、昨年の大晦日が初めてでした。 私が知っていたのはその寺が落語にゆかりのある寺だったからで、55世の..
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石田三成の実像17 「明石掃部」2 大坂の陣における活躍昨日のラジオで放送していた八幡和郎の講演の中で、関ヶ原の戦いの際は、秀吉夫人の北政所と淀殿がいずれも家康派でも三成派でもなく中立だったと述べていました。北政所イコール家康派、淀殿イコール三成派という..