記事「江戸時代」 の 検索結果 1676 件
-
安政五年十月十八日 封廻状改、牢屋敷へ預け 御小姓組酒井隠岐守組 曽我権左衛門家来 医師飯泉春堂養父 飯泉喜内(※1) 同断 島津又次郎家来 日下部伊三次(※2) 改、預け 二の丸御留守居、古賀謹一郎家来 藤森恭助(..
-
七月五日、御三家方へ御達書安政五年六月十九日、日米修好通商条約が朝廷の勅許無しで結ばれる。これに反対する徳川斉昭は、長男である水戸藩主・徳川慶篤、尾張藩主・徳川慶勝、福井藩主・松平慶永と共に六月二十四日、直弼以下幕閣を詰問する..
-
英吉利船七月四日夜、海岸掛御用番へ差出し 今四日巳中刻頃、異国船三艘相州三崎沖より走り出に付、私在所房州平群郡勝山より早速遠見船差出した処、暫時に浦賀観音まで乗廻し、江戸海の方へ走り込んだ旨、罷り帰り申し出..
-
安政五年六月十八日 備中守殿日米修好通商条約は、安政五年六月十九日(一八五八年七月二十九日)に神奈川沖・小柴の ポーハタン号で結ばれた通商条約である。この調印から本格的に幕末が始まる。藤岡屋日記の何か所に記載のある日本側動向につ..
-
喜連川左兵衛督出奔一件離縁御届の事 私養子喜連川左衛門督(※1)儀、兼々癇性強く御座るに付、養生として出府、実家細川越中守方へ差し遣わし、暫く逗留仕らせたく、願いの通り仰せ付け、先月廿四日、在所発足、同二十八日、到着致し..
-
二月十日夜五ツ時出火「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉は明治時代になって作られたものだという。誰も火事なんか歓迎しない。ただ、地名と近隣関係を学ぶにはいい機会となる。日本橋近辺の江戸時代の地名が多くでてくるので、古地図ま..
-
安政四年十二月廿三日 御用番大和守殿へ差出 溝口主膳正私家来滝沢休右衛門と申す者、傍輩久米弥兵衛と申す者を文化十四年(※1)十二月廿日夜殺害に及び、其の場より直ちに逃去るに付、取敢えず厳重に尋ね申せども、行衛相知れずに付、見合次第召し捕り申すべく、異議に..
-
真田信濃守屋敷内留守居役玉川一学宅にて、留守居寄合の事今日拾万石以上定鑑の間留守居寄合有り。然る処、大久保加賀守(※1)留守居高月六左衛門は、当時留守居仲間にて三四老故、地老なり。先に帰るに付、皆々差し留め申すは、只今御迎えの駕籠も参ります間、少々御待ち..
-
御礼の節、細川越中守斉護、金紋先挟箱にて、登城の事熊本細川家十一代当主細川斉護の家来が、登城の際金紋の挟箱を使用したいと老中に提出した伺書である。先挟箱とは、将軍家や諸大名などの行列で、正服を入れて、その先頭にかついで行かせた箱。一対で、家格により箱..
-
大山参り帰り麹町左官講中、東海道堺木建場にて、喧嘩一件麹町 左官講中 程ヶ谷宿 新金子忰 右の者、盆中、大山石尊へ麹町左官講中七人計参詣致し、今十八日夕頃、堺木建場(※1)へ着いた処、茶屋の前にて、程ヶ谷旅籠や新金子忰、客を迎えに爰まで出た処、当..
-
安政四年六月廿八日 新吉原仮宅とは、吉原遊郭が火災にあった時、一般人の居住地に仮営業を許された臨時の遊里の事を言う。その仮宅から吉原へ戻る時の話。 新吉原より所々へ出居る仮宅、今日を限り元地へ引き移るべき旨仰せ渡される。..
-
昔咄し 柳屋敷ぬかや婚礼頃は文政六年霜月の頃、外神田柳屋敷彦兵衛店、糠屋次助廿八才、此の者、毎度小日向辺りへ糠を買いに参る処、水戸殿百間長屋不明門手前角に、醴酒屋(あまざけや)見世有り、本宅は諏訪町にて、娘お花廿三才、尤美し..