記事「継体天皇」 の 検索結果 70 件
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トラさんと蘇我氏 2 出自の謎(承前) さて通説によれば蘇我稲目(506?~570)という人物は、継体天皇(450?~531)の擁立には大して貢献しなかったものの、尾張系の宣化天皇(467~539)の世に大臣(おおおみ)に抜擢..
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少彦名命と大和朝廷 3 息長の血脈(承前) 記紀神話の根幹は「皇祖アマテラス直系の子孫が唯一正統な存在である」と云う一点に在りますが、オオクニヌシの「国譲り」の前段において既に「天若日子(実体は天津彦根命でアマテラスの三男)の反乱..
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6世紀のヤマト政権【教科書まとめ】◆まとめ◆ 継体天皇【けいたいてんのう】 512年 大伴金村【おおとものかなむら】が加耶諸国【かやしょこく】(任那【みまな】)の一部を百済に割譲。 527年 磐井の乱【いわいのらん】。 ..
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応神天皇は神の子? 3 誰の子!(承前) 渦中の人・景行天皇の血統は①崇神・尾張ラインの八坂入媛の子供たち=成務帝(ワカタラシヒコ)、五百城入彦皇子と②ヤマトタケル、仲哀帝(タラシナカツヒコ)の二つに大別されますが、成務天皇は跡..
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垂仁天皇と息長氏 3(承前) 「2」に上げた二つの表の対比分析から、古事記が「吉備の石无(イワナシ)の祖」であると注を付けている皇后所生の大中津日子命と、渟葉田瓊入媛が産んだ「和気朝臣らの祖」鐸石別命が同一人物である..
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崇神と垂仁 2 神の怒り(承前) 多くの論者が崇神天皇を大和初期王朝の開祖であると考え、その王家が「崇神--垂仁--景行」と血脈が途絶えることなく続いたとする立場を取っていますが、偉大な創業者が苦心の末「初めて」行った天..
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景行天皇と印南別嬢 2(承前) 大王家の系譜は疑い始めるときりがありませんが、古事記の伝える処によれば、垂仁帝は丹波の比古多多須美知宇斯王(丹波道主王)の娘たちを后妃とし、その内の一人である阿邪美能伊理毘売命(薊瓊入姫..
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崇神は孝霊の子か 6(承前) 随分と前に読まれたかも知れない継体天皇に関連したページの記事を思い出される方もあるでしょう。これは宣化帝が即位の年の五月に出した詔勅とされている文言の一部です。大王自ら認めているように彼..
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彦坐王と垂仁天皇 3(承前) 古事記は開化段において長々と「日子坐王」の系譜を書き記していますが、一人の「王」の後裔をこれほど詳しく伝えているのは「後世」彼の血統から偉大な人物・息長帯姫命(神功皇后)が誕生したからで..
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ホムツワケ伝説 3 記紀の創作(承前) これだけの「伝説」の持ち主であれば、さぞや立派な王族に成長し、青史に残る様々な業績があるだろうと考えるのが普通ですが、この王子ホムツワケが次に表舞台に現れるのは三百年ほども経過した七世紀..
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「古代からの伝言 悠久の大和」八木荘司古代からの伝言 悠久の大和 (角川文庫) - 八木 荘司 「古代からの伝言」三冊目は武烈天皇が亡くなり、 皇統が危機に陥る時代から。 その危機を乗り越えるため画策するのは大伴金村。 大伴氏..
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継体天皇と磐井の乱★基本のまとめ★ 6世紀の初め、継体天皇を擁立した大連の大伴金村が政治を行なっていた。 朝鮮半島では加耶(加羅)の東は新羅が侵入し、西は百済が支配するようになっていった。 512年に大伴金村が任..