記事「蘇我氏」 の 検索結果 117 件
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蘇我氏流 4 日祀部と国造(承前 『諸系譜』より、五十狭茅宿禰) また正倉院文書に名を遺した他田日奉部直神護は七世紀前半に実在した人ですが、彼は本姓を「海上国造」(うなかみこくぞう)と上表文で主張しています。そして古事記に..
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蘇我氏流 3 三蔵を検校する(承前 『諸系譜』東国諸国造より) 蘇我稲目のもう一人の娘・小姉君もまた欽明天皇の妃となって後宮に入り、泥部穴穂部皇子や泥部穴穂部皇女、泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)などを生み、姉ともども生家の繁栄に..
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蘇我氏流 2 吉備に屯倉を設ける(承前 『先代旧事本紀』国造本紀より) ずっと時代は下りますが敏達ーー忍坂彦人大兄ーー舒明ーー天智と引き継がれてきた御名入部について、孝徳天皇の皇太子として政局を掌握していた中大兄皇子が、大化二年..
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蘇我氏流 1 「部」の発生と管理(「古語拾遺」より) 敏達天皇(572~585年在位)は前皇后の広姫を早くに亡くしましたが、治世六年二月にあたり詔して「日祀部(ひまつりべ)と私部(きさいちべ)」を新たに設置しています。 渟中..
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銅鐸 3 香久山はカルの山(承前 銅鐸は埋納された形で見つかる事か多い) 十代の半ばという若さで大海人皇子(天武天皇)に嫁いだ持統天皇(645~703)は、父・天智帝の九州遠征に従い西暦662年同地で嫡男の草壁皇子を出産し..
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大王と摂津三嶋 3 ニギハヤヒとは(承前 『先代旧事本紀』より) 東征に旅立つ直前、神武天皇は重大な一言を漏らしています。それが、 その飛び降るという者は、これ饒速日(にぎはやひ)と謂うか。 の一文なのですが、江戸期の国学..
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ピンク石 5 階段状の石室構造(承前 宇土市のピンク石) 西乗鞍古墳が道路に面しているのと違い、すぐ東隣にある古墳なのに南側から通じる細道が大変わかりにくいので、若し、休み等を利用して現地に足を運ぼうとする場合には下調べを入念..
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平城宮跡で、破壊された4世紀末の巨大前方後円墳の跡が見つかる4世紀は邪馬台国から倭国大乱を経て日本国が成立する最も重要な世紀なのだが、謎の4世紀、空白の4世紀とも呼ばれ、一切の歴史的記述書、伝承が残されていない時代である。その要因の一端とみられるのが..
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オニの話 2 朱雀門に居た鬼(承前) 少し時代が下りますが十一世紀になって天台宗の僧、皇円(1074?~1169)によって編纂された『扶桑略記』は斉明天皇が重祚した年の五月に現れた「青き油の笠を着た」「龍に乗れる者」の正体は..
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松本清張と巨石 4 女帝と鬼の逸話(承前) 以前、別の記事でも書いた事ですが、蘇我氏暗殺の現場に居合わせた女帝については余り芳しくない記述が多く、例えば正史の日本書記が、重祚した年の夏五月条と七年五月条でそれぞれ、 庚午の朔..
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松本清張と巨石 3 女帝の狂心とは(承前) さて、作家・松本清張の仮説は彼の作品を読んでもらうとして、その岩船の「正体」なのですが筆者にも皆目見当がつきません。WEB上でも様々な説が展開されていますが、いずれも決定打に欠けるようです。..
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松本清張と巨石 2 江戸期に観光名所に(承前 岩の上部には人工的な穴が開けられています) 松本清張も作品の中で触れていますが、国学者(1730~1801)の本居宣長は明和九年(1772)三月初旬から中旬にかけ、友人・門人たち五名で吉野..
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