記事「蘇我氏」 の 検索結果 117 件
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今また横井庄一NHK+で観た「ドキュメント72時間 聖夜の長崎大病院のケーキ店」に映ったがんを患い味覚を失いつつある知人Iさんの言葉がずっと胸元に突き刺さっている。大学病院の売店の中の小さなケーキ屋でケーキを小匙..
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稲荷とキツネ 4 創られてゆく「神話」(承前) ただ、深草の地に限らず、日本の土地土地には八百万の神々が住んでいたわけで、秦氏としても「うか」の大神を始めとする古い神々を祭神とすることで周囲との融和を図ろうとしたのではないでしょうか。..
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稲荷とキツネ 1 秦氏は古代の実力者(王子神社の狐たち 画家は広重) 動物シリーズの第3弾、ということでお稲荷さんのキツネくんを取り上げるつもりなのですが、彼・彼女については全くの素人。それでなくてもこの所、富に頼りなさを増す脳みそ..
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神様と柱 1 権威、権力の証?歴史の教科書などによれば「伊勢参り」は十七世紀の半ば、江戸から始まったのだそうですが、明和八年八月にも京都宇治を中心とした「おかげ参り」が大流行、記録によれば、なんと二百万人が参加し、街道沿いの..
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欽明帝の位置付け 4(承前) この様な系譜、系図上の「混乱」を取り上げ始めるときりが無く、又、とても煩雑になりすぎるのでこれ以上深入りしませんが、八世紀初めの段階で既に継体天皇の皇后と、その父親(大王)に関して正史(..
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欽明帝の位置付け 2 蘇我氏との関連は?(承前) 平安初め、西暦815年(弘仁6)に編まれた『新撰姓氏録』は、旧HPオノコロ・シリーズでお馴染みの文献ですが、そこには初代神武天皇を「祖」とする姓は勿論、古代からヤマトで連綿と命を繋いでき..
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日祀り部と私部 5 出雲と大和の和解?(承前) ところで国立国会図書館が収蔵している『諸系譜』の中に「東国諸国造」系譜があり、その冒頭には、 「意美豆努命ーー天穂日命ーー天夷鳥命ーー伊佐我命ーー津狭命(神狭命)」 と続く系譜が..
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日祀り部と私部 4 日奉部は斎宮に仕えた(承前) 蘇我氏は早くから仏教に傾倒し「私寺」を建てるなど、時の朝廷とは異なる姿勢を鮮明にしていましたから、この動きは当然敏達天皇の意向を反映した施策だったはずで「新撰姓氏録」にも日奉連、佐伯日奉..
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日祀り部と私部 3 屯倉と品部を独占(承前) 蘇我氏のこの動きを表面的に見れば、いかにも帝室の財政基盤を強化しているかの如くですが、吉備国で実行し「確かめた」屯倉経営を自家の繁栄に役立てたのだと言えるでしょう。「皇后の名代」を管理し..
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日祀り部と私部 2 蘇我氏の錬金術(承前) ずっと時代は下りますが敏達天皇ーー忍坂彦人大兄皇子ーー舒明天皇ーー天智天皇と引き継がれてきた御名入部について、孝徳天皇の皇太子として政局を掌握していた中大兄皇子が、大化二年(646)三月..
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日祀り部と私部 1 権力の源泉敏達天皇(572~585年在位)は前皇后の広姫を早くに亡くしましたが、治世六年にあたり詔して「日祀部(ひのまつりべ)と私部(きさいちべ)」を新たに設置しています。 渟中倉太珠敷尊(ぬなくらふとた..
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馬子と石舞台 6 入鹿の首が追いかける(承前) 先に示した推理から、石舞台古墳は蘇我馬子の墓ではない、というのが今回の結語なのです。久しぶりにオマケ話を一つ披露してお開きにしましょう。 石舞台古墳の直ぐ右手から東へ続く道があります..