記事「蘇我氏」 の 検索結果 117 件
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馬子と石舞台 5 古墳の主は誰なのか(承前) 七世紀中ごろ古墳終末期の築造とされる寝屋川の宝殿に見られる大変珍しい「刳りぬき式」構造を持つ遺跡が奈良明日香村にもあります。恐らく読者の皆さんも一度や二度は、どこかで耳にしたことがある「..
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馬子と石舞台 4 河内にも石宝殿が存在(承前) 時代は異なりますが、継体天皇の今城塚古墳からも播磨産と考えられる竜山石の破片が見つかっており、大王家を初めとする実力者たちの終の棲家作りに播磨の石が重宝されていたことは間違いないようです..
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馬子と石舞台 3 播磨は石材の名産地(承前) また、大石(幅6.4m×高さ5.7m×奥行7.2m)のある一帯は物部氏の領地だったようですから、物部守屋(もののべ・もりや)が西暦587年に「聖徳」太子たち仏教容認派の王族連合軍に滅ぼさ..
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馬子と石舞台 2 宝殿は神々の仕業?(承前) 生石神社の『略記』によれば、 神代の昔、大穴牟遅、少毘古那の二神が、天津神の命を受け 国土経営のため出雲の国よりこの地に座たとき、 二神相謀り国土を鎮めるに相応しい石の宮..
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蘇我と大辟 6 「豊」の文字が意味するもの(承前) 本朝皇胤紹運録の画像は一部加工してあります。 猿楽の第一人者であった世阿弥(ぜあみ,1363?~1443)が秦河勝の子孫を名乗り、彼の著作『風姿花伝』(花伝書)の中でも、先祖の河勝が「摂..
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蘇我と大辟 5 ご維新で祭神を変更?(承前) 註・本朝皇胤紹運録の画像は一部加工されています。 東京大学資料編纂所が収蔵している『東大寺文書』によれば、延暦12年(793)4月当時、赤穂郡の官吏であった「臨時の大領」と「臨時の小領」..
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蘇我と大辟 4 入鹿と秦氏の軋轢?(承前) 註・本朝皇胤紹運録の画像は一部加工されています。 大酒神社に設置されている「由緒書」には、確かに『元名大避神社』との表現がありますが、これは、 「大避」を称するは秦始皇帝の神霊を ..
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蘇我と大辟 3 安閑に皇子がいた(承前) 安閑天皇の子孫探しに明け暮れていた時、偶然、一冊の資料に巡りあいました。それは、京都・吉田神社の旧社家でもあり吉田家を取り仕切っていた江戸末期の国学者、鈴鹿連胤(すずか・つらたね,179..
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蘇我と大辟 2 急速な台頭の理由(承前) 邪馬台国や卑弥呼を持ち出すまでもなく古代史は「謎」の宝庫です。最近では考古学的な「発見」や「分析」結果から、従来「通説」とされてきた史学の常識が次々と見直されていますが、それでも多くの謎..
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蘇我と大辟 1 継体天皇の後先平安の都・京都から一路西へ…。大阪、神戸、加古川そして姫路も過ぎ、相生からJR赤穂線に乗り入れ終点近くまで進むと、小さな駅舎が旅人を迎えてくれる。2台しかない自動式の改札機に切符を滑り込ませ、南..
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稲目の正体 11 豊彦王は実在したか(承前) 推理「小説」の世界に於いて「犯人探し」をする場合、その出来事・事件の結果「誰が最も利益を受けるか」を目安にするそうなのですが、一族のホープ(厩戸皇子)の子孫全て、そして一族の大王(崇峻天..
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稲目の正体 9 自邸を「みかど」と称す(承前) 以前にも別のページで「入鹿」の亦の名を取り上げましたが、今回も、彼が「王」並みの存在であった傍証としての別名を考えてみましょう。「入鹿」の名前が、後世の権力者の意向を受けた記紀の編集者た..